な声を出した。
「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」
「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」
「それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな」
 白崎はそう呟いた。
 やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。
 ところが、帰ってみると、かつてのわが家の姿はもうそこになく、バラックの入口に「白崎」という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。
「やあ、うちもやられたんですか」
「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」
 それが、父一人子一人の、久し振りの挨拶だった。
「荷物はそれだけか」
「少ないでしょう?」
「いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……」
「そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ」
「ほう、そいつは殊勝だ」
「もっとも市電がなかったので、背中の荷を軽くしなければ焼跡を歩いて帰れませんからね」
「そんなことだろうと思ったよ。しかし、ついでにそのトランクもくれてやって来たのなら、なお良かったんだが……」
「いや、これはだめですよ。こりゃ僕のじゃありませんからね」
「じゃ、誰のだ」
「あはは……」
「変な笑い方をするなよ。あはは……。何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……」
「あはは……」
 父子は愉快そうに笑っていた。
 丁度その頃、赤井は南炭屋町の焼跡にしょんぼり佇んでいた。
 かつて、わが家のあったのは、この路地の中だと、さすがに見当はついたが、しかし、わが家の姿は勿論、妻や子の姿は、どこへ消えてしまったのか、まるで見当がつかなかった。
 眼の底が次第に白く更け、白い風が白く走る寒々とした焼跡に、赤井はちょぼんと佇んでいたが、やがてとぼとぼと歩きだした。が、どこへ行こうとするのか、妻子を探す当てもなく、また、今夜の宿を借りる当てもない。
 当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波
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