いう秘密かとのお問いですが、これはあくまで秘密として置きましょう。ただ、僕が「私」を出さずに、この小説を書いたらそれはどういう小説になったかを考えてみて下さい。僕には作風をかえる上からも「私」が必要だったのです。といって、僕は私小説を書いたのではありません。また、坂田三吉を書いたのではありません。
この「私」の出し方と「文芸」九月号の出し方は、すこし違います。作中に「オダ」という人名が出て来ますが、これは読者が佐伯は作者であるなど思われると困りますので、「オダ」が出て来るのです。
「聴雨」でもこの小説でも、作風は語り物の形式を離れて、分析的になっていることはお気づきのことと思いますが、もともと僕はそういう作風であったので、今のスタイルをつくるためにせいぜい「私」を出しているわけです。佐伯=作者の想念が「私」のために邪魔されたといっておられますが、計画的に邪魔をして行っているわけです。
次に、表現を色彩へ持って行くことが誇張だとは、どういうことでしょうか。「眼の前が真っ白になる」と。「青ざめた顔」はむしろ月並みです。しかし、僕は「赤い咳」という表現を出すために白と青を持って来たのです
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