顔をしていた。私は細君がいない隙をうかがって、
「どうした、喧嘩でもしたのか」ときくと、
「喧嘩はせんがね。どうもうまく行かん」
「立ち入ったことをきくが、肉体的に一致せんとか何とかそんな……」
「さアね」
 と赧くなったが、急に想いだしたように、
「――そういわれてみて、気がついたが、まだ一緒に寝たことがないんだ」
「へえ……?」
「忙しくてね、こっちはあれから毎晩徹夜だろう。朝細君が起きてから、寝るという始末だ」
「そんなこったろうと思った。しかし、初夜は一緒に寝たんだろう」
「ところが、前の晩徹夜したので、それどころじゃない。寝床にはいるなり、前後不覚に寝てしまったんだ」
 十日ほどたって、また行くと、しょげていた。
「何だか元気がないね」
「新券になってから、煙草が買えないんだ」
「旧券のうちに、買いためて置くという手は考えたの」
「考えたが、外出する暇がなくってね。仕事に追われていたんだ」
 と相変らずだった。
「原稿料もどうやら封鎖になるんじゃないかな。どうせ書きまくったって、新券ははいらぬのだし、煙草も吸えぬし、仕事はへらすんだね」
 そうなれば、夫婦仲もうまく行くだろうと言うと、
「へらすと言ったって、途中でやめるわけに行かぬ連載物が五つあるんだ。これだけで一月掛ってしまうよ。あと、ラジオと芝居を約束してるし、封鎖だから書けんと断るのは、いやだ。もっとも、文化文化といったって、作家に煙草も吸わさんような政治は困るね。金融封鎖もいいが、こりゃ一種の文化封鎖だよ。僕んとこはもう新円が十二円しかない」
「少しはこれで君も貯金が出来るだろう」
 ひやかしながら、本棚の本を一冊抜きだして、バラバラめくっていると、百円札が一枚下に落ちた。
「おい、隠匿紙幣が出て来たぞ」
「おや、出て来たのか。しかし、隠匿じゃない、忘却紙幣だ。入れたまま忘れてしまっていたんだ。どっちにしても、旧紙幣だから、反古同然だ」
「どうしてまたこんな所へ入れて忘れたんだ」
「前の細君が生きてた頃に入れたのだから、忘れる筈だよ、実はあの頃、まだ競馬があったろう」
「うん、ズボラ者の君が競馬だけは感心に通ったね」
「その金はその頃競馬の資金に、細君に内緒で本の間へかくして置いたんだ。あいつ競馬というと、金を出さなかったからね」
「たった百円か」
「いや、あっちこっち入れて置いたから、探せばもっとある筈だ。旧円の預け入れの時想いだしたんだが、どの本に入れて置いたのか忘れてしまったから、探すのはやめた。いちいち探してると、朝まで掛って、その間原稿は書けんからね」
「しかし、奥さんにそう言って、探して貰えばよかったに」
「原稿を書いてる傍で、ごそごそ本をひっくりかえされるのは、仕事の邪魔だと思ったので、それもよしたよ」
「君のことだから、合服のポケットなんかに旧円がはいってやしないか。入れ忘れたままナフタリン臭くなってね」
「そうだ。そう言われてみると、はいってるかも知れんね」
 と、済ました顔で、
「――以前は、財布を忘れて外出して弱ったものだが、しかし、喫茶店なんかのカウンターであっちこっちポケットを探っているうちに、ひょいと入れ忘れた十円札が出て来たりして、助かったことが随分あったよ」
「忘れて弱り、忘れて助かるというわけかね」
「しかし、これからはだめだ。探して出て来ても、旧円じゃ仕様がない」
「みすみす反古とは、変なものだね。闇市で証紙を売っていたということだが、まさかこんな風に出て来た紙幣に貼るわけでもないだろう」
 そう言うと、彼は急に眼を輝した。
「へえ……? 証紙を売ってるって? 闇市で、そうか。たしかに売ってるのか。どこの闇市?」
「いやに熱心だが、買いに行くのか」
 すると、彼は、
「誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
 そう言って、パイプに紅茶をつめると、急に喋りだした。
「――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。すると十枚で三百円だ。この旧券の三百円を預けるとそのまま新円で引き出せる。三百円あっても大したことはないが、三百円はいったということで、少し甦った気になるね。何かしら元気がついて、一人の子供が思い切って靴磨きに行く。この収入月にいくらすくなくても五百円になるだろう。いや、新円以後もっとすくなくて、三百円かな。じゃ、二人の子供が行けば六百円だ。親父は失業者だし、おふくろは赤ん坊の世話でかまけているとしても、二人の娘は前から駅で働いているから、二人で四百円ぐらい取るだろう。前の六百円と合わせて千円だ。普通十人家族で千二百円引き出せる勘定だが、千円と前の三百円、合わせて千三百円、一家自殺を図った家庭が普通一般の家庭と変らぬことになる――という筋は少し無理かな。いや、無理でなくするのが小説家の腕だ。――おい、君、仕事をはじめるから、帰ってくれぬか」



底本:「聴雨・蛍 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房
   2000(平成12)年4月10日第1刷発行
初出:「新風」
   1946(昭和21)年5月
入力:桃沢まり
校正:松永正敏
2006年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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