して、彼等はただ老境に憧れ、年輪的な人間完成、いや、渋くさびた老枯を目標に生活し、そしてその生活の総勘定をありのままに書くことを文学だと思っているのである。しかも、この総勘定はそのまま封鎖の中に入れられ、もはや新しい生活の可能性に向って使用されることがない。彼等の文学のうち、比較的ましな文学の中には彼等がいかに生きて来たかということは書かれているだろうが、いかに生くべきかという可能性は描かれていない。桑原武夫が、日本の文学がつまらぬのは、外国の文学に含まれている、人間がいかに生くべきかという思想がないからだという意味のことを言っていたが、結局それは私に解釈させれば、日本の伝統的小説には人間の可能性が描かれていないということだ。そしてこのことは、日本の伝統的小説が末期の眼を最高の境地として、近代芸術たる音楽よりも、既に発展の余地を失った古代造型美術を手本にして小説を作っている限り、当然のことである。志賀直哉とその亜流その他の身辺小説作家は一時は「離れて強く人間に即く」ような作品を作ったかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行ったのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いているというかも知れないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているだけだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼等は自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描けない。これは彼等のいわゆる芸術的誠実のせいだろうか。それとも、人間を愛していないからだろうか、あるいは、彼等の才能の不足だろうか。彼等の技術は最高のものと言われているかも知れないが、しかし、いつかは彼等の技術を拙劣だとする時代が来ることを、私は信じている。
私はことさらに奇矯な言を弄《ろう》しているのでもなければ、また、先輩大家を罵倒しようという目的で、あらぬことを口走っているのではない。昔、ある新進作家が先輩大家を罵倒した論文を書いたために、ついに彼自身没落したという話もきいている。口は禍《わざわい》の基である。それに、私は悪評というものがどれだけ相手を傷つけるものであるかということも知っている。私などまだ六年の文壇経歴しかないが、その六年間、作品を発表するたびに悪評の的となり、現在もその状況は悪化する一方である。私の親戚のあわて者は、私の作品がどの新聞、雑誌を見ても、げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チブス、害毒、人間冒涜、軽佻浮薄などという忌まわしい言葉で罵倒されているのを見て、こんなに悪評を蒙っているのでは、とても原稿かせぎは及びもつくまい、世間も相手にすまい、十円の金を貸してくれる出版屋もあるまい、恐らく食うに困っているのだろうと、三百円の為替を送って来てくれた。また、べつの親戚の娘は、女学校の入学試験に落第したのは、親戚に私のような悪評|嘖々《さくさく》たる人間がいるからであると言って、私に責任を問うて来た。ある大家が私の作品を人間冒涜の文学であり、いやらしいと言ったという噂が伝わった時、私は宿屋に泊っても変名を使った。悪評はかくの如く人の心を傷つける。だから、私は私を悪評した人の文章を、腹いせ的に悪評して、その人の心を不愉快にするよりは、その人の文章を口を極めてほめるという偽善的態度をとりたいくらいである。まして、枕を高くして寝ている師走の老大家の眠りをさまたげるような高声を、その門前で発するようなことはしたくない。
しかも敢《あえ》てこのような文章を書くのは、老大家やその亜流の作品を罵倒する目的ではなく、むしろ、それらの作品を取り巻く文壇の輿論《よろん》、即ち彼等の文学を最高の権威としている定説が根強くはびこっている限り、日本の文壇はいわゆる襟を正して読む素直な作品にはことを欠かないだろうが、しかし、新しい文学は起こり得ない、可能性の文学、近代小説は生れ得ないと思うからである。私は日本文壇のために一人悲憤したり、一人憂うという顔をしたり、文壇を指導したり、文壇に発言力を持つことを誇ったり、毒舌をきかせて痛快がったり、他人の棚下しでめしを食ったり、することは好まぬし、関西に一人ぽっちで住んで文壇とはなれている方が心底から気楽だと思う男だが、しかし、文壇の現状がいつまでも続いて、退屈極まる作品を巻頭か巻尾にのせた文学雑誌を買ったり、技倆《ぎりょう》拙劣読むに堪えぬ新人の小説を、あれは大家の推薦だからいいのだろうと、我慢して読んでいる読者のことを考えると、気の毒になるし、私自身読者の一人として、大いに困るのである。これは文学の神様のものだから襟を正して読め、これは文学の神様を祀っている神主の斎戒沐浴《さいかいもくよく》小
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