間いかに生くべきかという一つの典型にまで高め、ベリスム、ソレリアンなどという言葉すら生れたし、またアンドレ・ジイドは「贋金《にせがね》つくり」によって、近代劇的な額縁の中で書かれていた近代小説に、花道をつけ、廻り舞台をつけ、しかもそれを劇と見せかけて、実はカメラを移動させれば、観客席も同時にうつる劇中劇映画であり、おまけにカメラを動かしている作者が舞台で役者と共に演じている作者と同時にうつっていて、あとで「贋金つくりの日記」のアフレコを行うというややこしい形式を試みてドストイエフスキイにヒントを得た人間の対決の可能性を追究し、同時に、近代小説の形式的可能性をデフォルムした。が、サルトルはスタンダールやジイドの終った所からはじめず、彼等がはじめなかった所からはじめることによって、可能性の追究に新しい窓をあけたのだ。サルトルは絵描きが裸体のデッサンからはいって行くことによって、人間を描くことを研究するように、裸かの肉体をモラルやヒューマニズムや観念のヴェールを着せずに、描いたのだ。そして、人間が醜怪なる実存である限り、いかなるヴェールも虚偽であり、偽善であるとしたのだ。日本の少数の作家も肉体を描く。しかし、描かれた肉体は情緒のヴェールをかぶり、観念のヴェールをかぶり、あるいは文学青年的思考のデカダンスが、描かれた肉体をだしにしているという現状では、やはりサルトルの「水いらず」は一つの課題になるかも知れない。新しい文学が起ろうとする時には必ず既成の「人間」という観念への挑戦が起り、頑固なる中世的な観念の鎧をたたきこわして、裸かの人間を描こうとし、まず肉体のデッサンがはじまる。しかし、現在書かれている肉体描写の文学は、西鶴の好色物が武家、僧侶、貴族階級の中世思想に反抗して興った新しい町人階級の人間讃歌であった如く、封建思想が道学者的偏見を有力な味方として人間にかぶせていた偽善のヴェールをひきさく反抗のメスの文学であろうか、それとも、与謝野晶子、斎藤茂吉の初期の短歌の如く新感覚派にも似た新しい官能の文学であろうか、あるいは頽廃派の自虐と自嘲を含んだ肉体悲哀の文学であろうか、肉体のデカダンスの底に陥ることによってのみ救いを求めようとするネオ・デカダニズムの文学であろうか。サルトルは解放するが、救いを求めない。
いずれにしても、自然主義以来人間を描こうという努力が続けられながら
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