うが、尻尾も見えず、匂いもなしに、火遁《かとん》[#底本では「かとく」とルビ]、水遁《すいとん》、木遁《もくとん》、金遁《きんとん》さては土遁《どとん》の合図もなしに、ふわりと現われ、ふわりと消える、白い雲よりなお身も軽い、白雲師匠の秘伝を受けて、受けて返すはへぼ弓、へぼ矢、返らぬとかねて思えばあずさ弓、なき面に蜂のおかしさに、つい笑ってしまったが、笑えば笑窪《えくぼ》がアバタにかくれる、信州にかくれもなきアバタ男、鷲塚の佐助とは、俺のことだ」
 と、名乗ったが、なお名乗り足らぬと見えて、
「――遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ。見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、あきれかえるの醜男と、六十余州かくれもなき、鷲塚佐助のこの面を、とっくり拝んで置け!」
 と、続けたので、さすがの三好入道も、思わず失笑しかけた。
 しかし、男同志が名乗り合う厳粛な時だと、笑いを噛みしめて、
「推参なり。我こそは、信州上田の鬼小姓、笛も吹けば、法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を破った数は白妙《しらたえ》の、衣を墨に染めかえて、入道姿はかくれもなき、三好清海入道なり」
 と、名乗った。
 そして、双方名乗りが済むと、三好入道はいきなり長槍をしごいて、佐助の胸をめがけて、
「エイッ!」
 と、突いたが、佐助はぱっと樹の上に飛び上って、笑いながら、
「おい、入道とやら。その坊主頭、打ち見たところ、ちと変哲が無さすぎて、寂しい故、枯木も山の賑いのコブを二つ三つ、坊主山のてっぺんに植えつけてくれようか。眼から出た火で山火事無用じゃ」
 と、言ったかと思うと、ぱっと飛び降りざまに、三好入道の頭を鉄扇でしたたか敲くと、入道は眼をまわして、気絶してしまった。
 見ていた幸村は、何思ったのか、佐助に呼びかけて、あたら幻妙の腕を持ちながら、山中に埋れるのは惜しいと仕官を口説くと元来自惚れの尠《すくな》くない佐助は脆《もろ》かった。

 やがて、幸村より猿飛の姓を与えられた佐助は、
「今日よりは、鳥居峠を猿(去る)飛佐助だ」
 と、駄洒落を飛ばしながら、いそいそと幸村主従のあとについて、上田の城にはいった。
 が、佐助はさすがに白雲師匠の教訓を忘れなかったのか、鳥人の術なぞ知った顔は一つも見せず、専らアバタの穴だらけの醜い顔を振りまわして行くと、案の定人に好かれた。
 その頃、同じ城内に、悪病
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