する。竈の煙が部屋いっぱいにこもりだすと、他吉は炬燵のなかから這いだして来る。仏壇に灯明をあげて、君枝を起し、一しょに共同水道場で顔をあらって、家へはいると、もう朝飯の支度ができている。食事が済むと、君枝に今日の勉強の予習をさせる。(婆さんはすこしぐらいなら字が読めるかも知れない)それが済むと、君枝は婆さんに連れられて、学校へ行く。(これまでは甘酒屋の婆さんが連れて行ってくれたのだが、甘酒屋の婆さんはもう腰も曲り、どうかすると、面倒くさがった)その間に他吉は俥の手入れをする。路地ではとんど[#「とんど」に傍点]が始まる。暫らくそれにあたって、他吉は俥をひいて出て行く。小学校の前を通りかかると、子供たちの唱歌がきこえて来る。その中に、君枝の声をききつけようと、ちょっと立ちどまり、耳を傾ける。そして、客待ち場へ行く。他吉の留守中、婆さんはそこら片づけものをしたり、洗濯をしたり、君枝の着物のほころびを縫うたりする。君枝が学校からひけて来ると、婆さんは君枝と遊んでやる。銭湯へも連れて行く。おさらいも監督する。夜、添寝してやる。君枝が寝入っても、婆さんは寝てしまわない。他吉の帰りを待っているのだ。他吉が帰って来ると君枝の寝顔を見ながら一しょに夜食をたべる。時には、隣の〆団治も呼んで、御馳走してやる。夜食が終ると、寝るまえの灯明を仏壇へあげる……。
 他吉の想像はろくろ首のようにぐんぐん伸びたが、仏壇のことに突き当ると、どきんと胸さわいだ。
「わいひとりの了見で決められることとちがう。こら、位牌に相談せなどんならん」
 他吉は仏壇の前に坐った。
 お鶴、初枝、新太郎の三つの位牌のうち、どういうわけか、新太郎の位牌が強く目に来て、さびしくマニラで死んで行った新太郎の気持を想って胸が痛んだ。
 源聖寺坂の上の寺の中で、新太郎の顔を殴ったことも、想い出された。
「――ほな、おやっさんがそない行けというねやったら、マニラへ行くわ」
 おとなしく、言うことをきいた新太郎の言葉が、にわかに耳の奥できこえた。
 親子の想いがぐっと皮膚に来た。
 すると、もう他吉は、この家に誰ひとりとして他人を入れたくないと思った。お鶴も初枝もそれをねがっているだろうと、思われた。
 この三人は君枝のなかに生きているのだ――そんな想いが、改めて来た。
「君枝とふたり水いらずで暮してこそ、新太郎をマニラで死なし
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