、比律賓へ行ってしまえば、どうなっていたことかと、他吉はひやっとしたが、間もなく行われた町内のマラソン競争で桶屋の新太郎は一等をとった。
 新太郎は少年団の世話役で、毎夜子供たちを集めて、生国魂《いくだま》神社の裏の空地でラッパを教え、彼の吹くラッパの音は十町響いて、銭湯で冬も水を十杯あびるのは、他吉のほかは町内で新太郎ただひとりであった。なお、銭湯の帰り、うどん屋でラムネ一杯のまず、存外律儀者であった。
 マラソン競争のあった翌日、他吉はれいの上着のポケットに、季節はずれの扇子を入れて、桶屋の主人を訪れ、
「早速やが……」
 と、新太郎を初枝の婿にする話を交渉した。
「さあ、わいには異存はないけど、新太郎の奴がどない言いよりまっしゃろか」
 桶屋の主人が言うと、
「どないも、こないも、あんた、おまはんやわいの知らん間にあいつらもうちゃんと好いた同志になっとりまんねんぜ。阿呆らしい。ほんまに、こんな、じゃらじゃらした話おまっかいな」
 他吉はぷりぷりしたが、しかし、新太郎の身体の良いところを見込んでの話だと、万更でも無い顔つきだった。
 新太郎の年期ももうとっくに済んでいたので、話はすぐ纒った。
 やがて、新太郎は玉造で桶屋を開業したが見込んだ通り、働き者で、夫婦仲のよいのは勿論である。
 他吉はやれやれと思い、河童路地《がたろろじ》の朝夕急にそわそわしだした。
 が、新太郎が開業する時に借りた金は、未だすっかり済んでいない。比律賓へ行くのはもうすこしの辛抱だと、じっと腹の虫を圧えている内、新太郎の家の隣りから火が出て、開業早々丸焼けになった。
 焼け出されて、新太郎は一時河童路地の他吉の家へうつって来たが、げっそりして、頭から蒲団をかぶって、まるで暖簾に凭れて麩噛んだような精のない顔をしていた。
 もう一度、立ち直って、桶屋をはじめる気もないらしく、また、職を探しに歩こうともしなかった。
 ぶつぶつ何やら呟いているのを聴けば、開業資金に借りた金の残額を、おろおろ勘定しているのだった。
「阿呆んだらめ!」
 他吉は叱りつけて、
「家の中でごろごろして借金がかえせる思てるのか。いったい、これからどないする気や。もちっと、はんなりしなはれ」
「さあ、どないしたらええやろ。もう、こうなったら、冷やし飴でも売りに歩かな、仕様《しよ》おまへんな。ほんまに、えらい災難や」
 心
前へ 次へ
全98ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング