いの名を一字ずつ取って「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。
まだ暑さの去っていなかった頃とて、思い切って生ビールの樽を仕込んでいた故、早く売り切ってしまわねばビールの気が抜けてしまうと、やきもき心配したほどでもなく、存外よく売れた。
人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、便所に立つ暇もなかった。
廓をひかえて夜更けまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で、一刻《いっとき》うとうとしたかと思うと、もう眼覚しがジジ……と鳴った。寝巻きのままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品附十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物、御飯と都合四品で十八銭、細かい儲けだとたかをくくっていたところ、ビールなどを取る客もいて、結構商売になったから、少々の眠さも我慢出来た。
秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋にもって来いの季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、酩酒の本鋪から看板を寄贈してやろうというくらいで、蝶子の三味線もこんどばかりは空しく押入れにしまったままだった。
柳吉もこんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、身の入れ方は申し分なかった。
公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費いもないままに、勢い残る一方であった。柳吉は毎日郵便局へ行った。
身体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を蝶子は知っていたので、ヒヤヒヤしたが、売り物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。が、そういう飲み方もしかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ転んでも心配は尽きなかった。大酒を飲めば莫迦に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいで無口の上に一層無口になり、客のない時など椅子に腰かけてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、梅田の実家のことを考えてるのとちがうやろか、そう思って、矢張り蝶子は気が気でなかった。
案の定、妹が婿養子を迎える婚礼に出席を撥ねつけられたといって、柳吉は気を腐らせ、貯金の中から二百円ほど
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