話やわ。十年も昔になりまっしゃろか」
と、話しだした……。
3
高津神社坂下の小さな店で剃刀屋を始めたが、はやらなかった。東西屋を雇って開店した朝、蝶子は向う鉢巻きでもしたい気持で店の間に坐っていた。午頃、
「さっぱり客が来えへんな」
と、柳吉は心細い声をだしたが、蝶子はそれに答えず、眼を皿のようにして表を通る人を睨んでいた。
午過ぎ、やっと客が来て安全剃刀の替刃一枚六銭の売上げという情けないありさまだった。
「まいどおおけに」
「どうぞごひいきに」
夫婦がかりで、薄気味悪いくらいサーヴィスを良くしたが、人気が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それも殆んど替刃ばかり、売上げは〆めて二円にも足らなかった。
そんな風に客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。
話の種も尽きて、退屈したお互いの顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい気がし、退屈しのぎに昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと言いだす柳吉を、蝶子はとめる気も起らなかった。
柳吉は近くの下寺町で稽古場をひらいている竹本組昇に月謝五円で弟子入りし、二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。柳吉は商売に身を入れるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなった。その声がいかにも情けなく、蝶子は上達したと褒めるのもなんとなく気が引けた。
毎月食い込んで行ったので、蝶子は再びヤトナに出た。苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業《しょうばい》大事とつとめて、一人で座敷を浚って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われなかった。ひとつには、柳吉の本妻は先年死に、蝶子も苦労の仕甲斐があった。
ところが、柳吉はそんな蝶子の気持を知ってか知らずにか、夕方蝶子が三味線を入れた小型の手提げ鞄をもって出掛けて行くと、そわそわと早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店で、かやく飯とおこぜ[#「おこぜ」に傍点]の赤出しを食べ、鳥貝の酢味噌で酒をのみ、六十五銭の勘定を払って、安いもんやなあと、「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れしている女にふんだんにチップをやると、十日間の売上げが
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