わが町
織田作之助
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)八十キロの開|鑿《さく》は、
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)八十キロの開|鑿《さく》は、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#底本では、改行後はじめの一字さげ無し]
−−
第一章 明治
1
マニラをバギオに結ぶベンゲット道路のうち、ダグバン・バギオ山頂間八十キロの開|鑿《さく》は、工事監督のケノン少佐が開通式と同時に将軍になったというくらいの難工事であった。
人夫たちはベンゲット山腹五千フィートの絶壁をジグザグによじ登りながら作業しなければならず、スコールが来ると忽ち山崩れや地滑りが起って、谷底の岩の上へ家守のようにたたき潰された。風土病の危険はもちろんである。
起工後足掛け三年目の明治三十五年の七月に、七十万ドルの予算をすっかり使い果してなお工事の見込みが立たぬいいわけめいて、
「……山腹は頗る傾斜が急で、おまけに巨巌はわだかまり、大樹が茂って、時には数百メートルも下って工事の基礎地点を発見しなければならない。しかも、そうした場所にひとたび鶴嘴を入れるや、必らず上部に地滑りが起り、しだいに亀裂を生じて、ついにはこれが数千メートルにも及ぶ始末である……」
もって工事の至難さを知るべしという技師長の報告が、米本国の議会へ送られた時には、土民の比律賓《フィリッピン》人をはじめ、米人・支那人・露西亜人・西班牙《スペイン》人等人種を問わず狩り集められていた千二百名の人夫は、五メートルの工事に平均一人ずつの死人が出るという惨状におどろいて、一人残らず逃げだしてしまっていた。
けれど、本国政府は諦めなかった。熱帯地にめずらしく冬は霜を見るというくらい涼しいバギオに避暑都市を開いて、兵舎を建築する計画の附帯事業として、ベンゲット道路の開鑿は、比島領有後の合衆国の施政に欠くことの出来ないものであった。
工事監督が更迭して、百万ドルの予算が追加された。新任のケノン少佐はさすがにこれらの人種の恃むに足らぬのを悟ったのか、マニラの日本領事館を訪問して、邦人労働者の供給を請うた。邦人移民排斥の法律を枉げてまでそうしたのは、カリフォルニヤを開拓
次へ
全98ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング