でいやしないかと、しょっちゅうそれを向うで僻んでいるの。父は継母《はは》に気兼ねして、私の事は何んにも口に出して言わないの。継母は早く私を不幸な結婚に追いやってしまおうとしているの。そしてどんな男が私を一番不幸にするか、それはよく知っているのよ。継母は自分を苦しめた私を、私はちょっともお継母《かあ》さんを苦しめたことなんかありはしないのに、私が自分より幸福になることをひどく嫌がっているらしいの。そんなにまで人間は人間を憎しめるものかしら。……中で、私を一番不幸にしそうなのは、ある銀行家の息子なの。ヴァイオリンが上手で、困ったことに私を愛しているのよ。この間、仲人《なこうど》の人がぜひその男のヴァイオリンを聞けと言って、私に電話口で聞かせるのよ。お継母さんがどうしても聞けって言うんですもの。後でお継母さんが出て、大変けっこうですね、今、娘が大変喜んでおりました、なんて言うの。私その次に会った時、この間の軍隊行進曲《マーチ》はずいぶんよかったわね、ってそ言ってやったわ。ほんとはマスネエの逝く春を惜しむ悲歌《エレジイ》を弾いたんだったけど。皮肉っていや、そりゃ皮肉なのよ、その人は。いつだったかいっしょに芝居へ行こうと思ったら、髭も剃っていないの。そう言ってやったら、すました顔をして、いや一遍剃ったんですが、あなたのお化粧を待っているうちに、また伸びてしまったんですよ。どうも近代の男は、女が他の男のために化粧しているのを、ぽかんとして待っていなければならない義務があるんですからね、まったく、……って、こうなのよ。女を軽蔑することが自慢なんでしょう。軽蔑病にかかっているのよ。何んでも他のものを軽蔑しさえすれば、それで自分が偉くなったような気がするのね。近代の一番悪い世紀病にとっつかれているんだわ。今度会ったら紹介してあげるわね。
――君は、その人と結婚するつもり?
 シイカは突然黙ってしまった。
――君は、その男が好きなんじゃないの?
 シイカはじっと下唇を噛んでいた。一歩ごとに振動が唇に痛く響いて行った。
――え?
 彼が追っかけるように訊いた。
――ええ、好きかもしれないわ。あなたは私たちの結婚式に何を送ってくださること?
 突然彼女がポロポロと涙を零《こぼ》した。
 彼の突き詰めた空想の糸が、そこでぽつりと切れてしまい、彼女の姿はまた、橋の向うの靄の中に消えてしまった。彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮《しょうりょ》と情熱が、まるでコクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28−上段−1]ークのように攪《か》き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張りだした。
 川沿いの並木道が長く続いていた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでいた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。
――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。
――女優?
――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優じゃないわ。女が瞬間に考えついたすばらしい無邪気な空想を、いちいちほんとに頭に刻みこんでいたら、あなたは今に狂人になってしまってよ。
――僕はもう狂人です。こら、このとおり。
 彼はそう言いながら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに駈けだして行ってしまった。
 シイカはそれをしばらく見送ってから、深い溜息をして、無表情な顔を懶《ものう》げに立てなおすと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のように、とぼとぼと橋の方へ向って歩きだした。
 彼女の唇をかすかに漏れてくる吐息とともに、落葉を踏む跫音《あしおと》のように、……

  君は幸《さち》あふれ、
  われは、なみだあふる。

     6

 いつもの果物屋で、彼がもう三十分も待ち呆けを喰わされていた時、電話が彼にかかってきた。
――あなた? ごめんなさい。私、今日はそっちへ行けないのよ。……どうかしたの?
――いいえ。
――だって黙ってしまって、……怒ってるの?
――今日の君の声はなんて冷たいのかしら。
――だって、雪が電線に重たく積っているんですもの。
――どこにいるの、今?
――帝劇にいるの。あなた、いらっしゃらないこと? ……この間話したあの人といっしょなのよ。紹介してあげるわ。……今晩はチァイコフスキイよ。オニエギン、……
――オニエギン?
――ええ。……来ない?
――行きます。
 その時彼は電話をとおして、低い男の笑声を聞いた。彼は受話器をかけるといきなり帽子を握った。頬っぺたをはたかれたハルレキンのような顔をして、彼は頭の中の積木細工が、不意に崩れて行くかすかな音を聞いた。

 街には雪が蒼白く積っていた。街を長く走っている電線に、無数の感情がこんがらかって軋《きし》んで行く気味の悪い響が、この人通りの少い裏通りに轟々《ごうごう》と響いていた。彼は耳を掩《おお》うように深く外套の襟を立てて、前屈《まえかが》みに蹌踉《ある》いて行った。眼筋が働きを止めてしまった視界の中に、重なり合った男の足跡、女の足跡。ここにも感情が縺《もつ》れ合ったまま、冷えきった燃えさしのように棄てられてあった。
 いきなり街が明るく光りだした。劇場の飾灯が、雪解けの靄《もや》に七色の虹を反射させていた。入口にシイカの顔が微笑んでいた。鶸色《ひわいろ》の紋織の羽織に、鶴の模様が一面に絞《しぼ》り染めになっていた。彼女の後ろに身長《せい》の高い紳士が、エチケットの本のように、淑《しと》やかに立っていた。
 二階の正面に三人は並んで腰をかけた。シイカを真中に。……彼はまた頭の中の積木細工を一生懸命で積み始めた。
 幕が開いた。チァイコフスキイの朗《ほが》らかに憂鬱な曲が、静かにオーケストラ・ボックスを漏れてきた。指揮者のバトンが彼の胸をコトン、コトン! と叩いた。
 舞台一面の雪である。その中にたった二つの黒い点、オニエギンとレンスキイが、真黒な二羽の鴉《からす》のように、不吉な嘴《くちばし》を向き合せていた。
 彼は万年筆をとりだすと、プログラムの端へ急いで書きつけた。
(失礼ですが、あなたはシイカをほんとに愛しておいでですか?)
 プログラムはそっと対手《あいて》の男の手に渡された。男はちょっと顔を近寄せて、すかすようにしてそれを読んでから、同じように万年筆をとりだした。
(シイカは愛されないことが愛されたことなのです。)
――まあ、何? 二人で何を陰謀をたくらんでいるの?
 シイカがクツクツと笑った。プログラムは彼女の膝の上を右へ左へ動いた。
(そんな無意義なパラドックスで僕を愚弄《ぐろう》しないでください。僕は奮慨しているんですよ。)
(僕の方がよっぽど奮慨してるんですよ。)
(あなたはシイカを幸福にしてやれると思ってますか。)
(シイカを幸福にできるのは、僕でもなければ、またあなたでもありません。幸福は彼女のそばへ近づくと皆んな仮面を冠ってしまうのです。)
(あなたからシイカの事を説明していただくのは、お断りしたいと思うのですが。)
(あなたもまた、彼女を愛している一人なのですか。)
――うるさいわよ。
 シイカがいきなりプログラムを丸めてしまった。舞台の上では轟然たる一発の銃声。レンスキイの身体が枯木のように雪の中に倒れ伏した。
――立て!
 いきなり彼が呶鳴った。対手の男はぎく[#「ぎく」に傍点]として、筋を引いた蛙の肢のように立上った。シイカはオペラグラスを膝の上に落した。彼はいきなり男の腰を力|任《ま》かせに突いた。男の身体はゆらゆらと蹌踉《よろ》めいたと思ったら、そのまま欄干を越えて、どさりと一階の客席の真中に墜落してしまった。わーっ! という叫び声。一時に立上る観客の頭、無数の瞳が上を見上げた。舞台では、今死んだはずのレンスキイがむっくりと飛び上った。音楽がはたと止った。客席のシャンドリエに灯火が入った。叫び声!
 シャンドリエの光が大きく彼の眼の中で揺れ始めた。いきなり力強い腕が彼の肩を掴んだ。ピントの外れた彼の瞳の中に、真蒼なシイカの顔が浮んでいた。広く瞠《みひら》いた瞳の中から、彼女の感情が皆んな消えて行ってしまったように、無表情な彼女の顔。白々しい仮面のような彼女の顔。――彼はただ、彼女が、今、観客席の床の上に一箇所の斑点のように、圧しつぶされてしまったあの男に対して、何んらの感情も持ってはいなかったことを知った。そして、彼女のために人を殺したこの自分に対して、憎悪さえも感じていない彼女を見た。

     7

 街路樹の新芽が眼に見えて青くなり、都会の空に香《かぐ》わしい春の匂いが漂ってきた。松の花粉を浴びた女学生の一群が、ゆえもなく興奮しきって、大きな邸宅の塀の下を、明るく笑いながら帰って行った。もう春だわね、と言ってそのうちの一人が、ダルクローズのように思いきって両手を上げ、深呼吸をした拍子に、空中に幾万となく数知れず浮游していた蚊を、鼻の中に吸いこんでしまった。彼女は顰《しか》め面《つら》をして鼻を鳴らし始めた。明るい陽差しが、軒に出された風露草《グラニヤ》の植木鉢に、恵み多い光りの箭《や》をそそいでいた。
 取調べは二月ほどかかった。スプリング・スーツに着更えた予審判事は、彼の犯行に特種の興味を感じていたので、今朝も早くから、友人の若い医学士といっしょに、ごく懇談的な自由な取調べや、智能調査、精神鑑定を行った。以下に書きつけられた会話筆記は、その中から適宜《てきぎ》に取りだした断片的の覚書である。

問。被告は感情に何かひどい刺戟《しげき》を受けたことはないか?
答。橋の向うの彼女を知ろうとする激しい慾求が、日夜私の感情をいらだたせていました。
問。それを知ったら、被告は幸福になれると確信していたのか?
答。かえって不幸になるに違いないと思っていました。
問。人間は自分を不幸にすることのために、努力するものではないと思うが。
答。不確実の幸福は確実な不幸より、もっと不幸であろうと思います。
問。被告の知っている範囲で、その女はどんな性格を持っていたか?
答。巧みなポオカア・フェスができる女でした。だが、それは意識的な悪意から来るのではないのです。彼女は瞬間以外の自分の性格、生活に対しては、何んらの実在性を感じないのです。彼女は自分の唇の紅がついたハンケチさえ、私の手もとに残すことを恐れていました。だから、彼女がすばらしい嘘をつくとしても、それは彼女自身にとっては確実なイメエヂなのです。彼女が自分を女優だと言う時、事実彼女は、どこかの舞台の上で、華やかな花束に囲まれたことがあるのです。令嬢だと言えば、彼女は寝床も上げたことのない懶《ものう》い良家の子女なのです。それが彼女の強い主観なのです。
問。そう解っていれば、被告は何もいらいら彼女を探ることはなかったのではないか。
答。人間は他人の主観の中に、けっして安息していられるものではありません。あらゆる事実に冷やかな客観性を与えたがるものなのです。太陽が地球の廻りを巡っている事実だけでは満足しないのです。自分の眼を飛行機に乗せたがるのです。
問。その女は、被告のいわゆる橋の向うの彼女について、多く語ったことがあるか?
答。よく喋《しゃべ》ることもあります。ですが、それは今言ったとおり、おそらくはその瞬間に彼女の空想に映じた、限りない嘘言の連りだったと思います。もしこっちから推理的に質問を続けて行けば、彼女はすぐと、水を離れた貝のように口を噤《つぐ》んでしまうのです。一時間でも二時間でも、まるで彼女は、鍵のかかった抽斗《ひきだし》のように黙りこんでいるのです。
問。そんな時、被告はどんな態度をとるのか?
答。黙って爪を剪《き》っていたり、百人一首の歌を一つ一つ想いだしてみたり、……それに私は工場のような女が嫌いなのです。
問。被告は自分自身の精神状態について、異常を認めるような気のしたことはないか?
答。私を狂人だと思う人があったなら、その人は、ガリレオを罵《ののし》ったピザの学徒のような譏《そし》りを受けるでしょう。
問。
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