生は、手をつなぎ合せながら、可憐《いじら》しそうに、お揃いの肩掛を買っていた。エレベーターがちょうど定員になったので、若夫婦にとり残された母親が、ふいと自分の年を想いだして、きゅうに淋しそうに次のを待っていた。独身者が外套のハネ[#「ハネ」に傍点]を落す刷毛《ブラシ》を買っていた。ラジオがこの人混みの中で、静かな小夜曲《セレナーデ》を奏していた。若い女中が奥さんの眼をかすめて、そっと高砂の式台の定価札をひっくり返してみた。屋上庭園では失恋者が猿にからかっていた。喫煙室では地所の売買が行われていた。待ち呆けを喰わされた男が、時計売場の前で、しきりと時間を気にしていたが、気の毒なことに、そこに飾られた無数の時計は、世界じゅうのあらゆる都市の時間を示していた。…………
 三階の洋服売場の前へひょっこりと彼が現れた。
――モーニングが欲しいんだが。
――はあ、お誂《あつら》えで?
――今晩ぜひ要るのだが。
――それは、……
 困った、といった顔つきで店員が彼の身長をメートル法に換算した。彼は背伸びをしたら、紐育《ニューヨーク》の自由の女神が見えはすまいかというような感じだった。しばらく考えていた店員は、何か気がついたらしく、そうそう、と昔なら膝を打って、一着のモーニングをとりだしてきた。じつはこれはこの間やりました世界風俗展で、巴里《パリ》の人形が着ていたのですが、と言った。
 すっかり着こむと、彼は見違えるほどシャン[#「シャン」に傍点]として、気持が、その粗《あら》い縞のズボンのように明るくなってしまった。階下にいる家内にちょっと見せてくる、と彼が言った。いかにも自然なその言いぶりや挙動で、店員は別に怪しみもしなかった。では、この御洋服は箱にお入れして、出口のお買上品引渡所へお廻しいたしておきますから、……
 ところが、エレベーターはそのまま、すうっと一番下まで下りてしまった。無数の人に交って、ゆっくりと彼は街に吐きだされて行った。
 もう灯の入った夕暮の街を歩きながら彼は考えた。俺は会社で一日八時間、この国の生産を人口で割っただけの仕事は充分すぎるほどしている。だから、この国の贅沢を人口で割っただけの事をしてもいいわけだ。電車の中の公衆道徳が、個人の実行によって完成されて行くように、俺のモーニングも、……それから、彼はぽかんとして、シイカがいつもハンケチを、左の手首のところに巻きつけていることを考えていた。
 今日はホテルで会う約束だった。シイカが部屋をとっといてくれる約束だった。

――蒸《む》すわね、スチイムが。
 そう言ってシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の灯火が溶けている街の風景を見下しながら、彼女がいつものマズルカを口吟《くちずさ》んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のように、彼女の口を漏《も》れてくると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだった。ことに橋を渡って行くあの別離の時に。
――このマズルカには悲しい想い出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にしたことがあった。
――黒鉛ダンスって知ってて?
 いきなりシイカが振り向いた。
――いいえ。
――チアレストンよりもっと新らしいのよ。
――僕はああいうダァティ・ダンスは嫌いです。
――まあ、おかしい。ホホホホホ。
 このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たった二人で向い合っている時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残してきていようなどとはどうして思えようか。彼女は春の芝生のように明るく笑い、マクラメ・レースの手提袋から、コンパクトをとりだして、ひととおり顔を直すと、いきなりポンと彼の鼻のところへ白粉《おしろい》をつけたりした。
――私のお友だちにこんな女《ひと》があるのよ。靴下止めのところに、いつも銀の小鈴を結《ゆわ》えつけて、歩くたびにそれがカラカラと鳴るの。ああやっていつでも自分の存在をはっきりさせておきたいのね。女優さんなんて、皆んなそうかしら。
――君に女優さんの友だちがあるんですか?
――そりゃあるわよ。
――君は橋の向うで何をしてるの?
――そんなこと、訊かないって約束よ。
――だって、……
――私は親孝行をしてやろうかと思ってるの。
――お母さんやお父さんといっしょにいるんですか?
――いいえ。
――じゃ?
――どうだっていいじゃないの、そんなこと。
――僕と結婚して欲しいんだが。
 シイカは不意に黙ってしまった。やがてまた、マズルカがリラリラと、かすかに彼女の唇を漏れてきた。
――だめですか?
――……
――え?
――おかしいわ。おかしな方ね、あんたは。
 そして彼女はいつものとおり、真紅な着物の薊《あざみ》の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺
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