だんだんいらだってきた。ちょうど仮装舞踏会のように、自分と踊っている女が、その無表情な仮面の下で、何を考えているのか。もしそっとその仮面を、いきなり外してみたならば、女の顔の上に、どんな淫蕩《いんとう》な多情が、章魚《たこ》の肢のように揺れていることか。あるいはまた、どんな純情が、夢を見た赤子の唇のようにも無邪気に、蒼白く浮んでいることか。シイカが橋を渡るまでけっして外したことのない仮面が、仄《ほ》の明りの中で、薄気味悪い無表情を示して、ほんのりと浮び上っていた。
彼は絶間ない幻聴に襲われた。幻聴の中では、彼の誠意を嗤《わら》うシイカの蝙蝠《こうもり》のような笑声を聞いた。かと思うと、何か悶々《もんもん》として彼に訴える、清らかな哀音を耳にした。
蝋涙《ろうるい》が彼の心の影を浮べて、この部屋のたった一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝って、音もなく流れて行った。彼の空想が唇のように乾いてしまったころ、嗚咽《おえつ》がかすかに彼の咽喉《のど》につまってきた。
5
――私は、ただお金持ちの家に生れたというだけの事で、そりゃ不当な侮蔑《ぶべつ》を受けているのよ。私たちが生活の事を考えるのは、もっと貧しい人たちが贅沢の事を考えるのと同じように空想で、必然性がないことなのよ。それに、家名だとか、エチケットだとか、そういう無意義な重荷を打ち壊す、強い意志を育ててくれる、何らの機会も環境も、私たちには与えられていなかったの。私たちが、持て余した一日を退屈と戦いながら、刺繍の針を動かしていることが、どんな消極的な罪悪であるかということを、誰も教えてくれる人なんかありはしない。私たちは自分でさえ迷惑に思っている歪《ゆが》められた幸運のために、あらゆる他から同情を遮られているの。私、別に同情なんかされたくはないけど、ただ不当に憎まれたり、蔑《さげす》まれたりしたくはないわ。
――君の家はそんなにお金持なの?
――ええ、そりゃお金持なのよ。銀行が取付けになるたびに、お父さまの心臓はトラックに積まれた荷物のように飛び上るの。
――ほう。
――この間、いっしょに女学校を出たお友だちに会ったのよ。その方は学校を出るとすぐ、ある社会問題の雑誌にお入りになって、その方で活動してらっしゃるの。私がやっぱりこの話を持ちだしたら、笑いながらこう言うの。自分たちはキリストと違って、すべての人類を救おうとは思っていない。共通な悩みに悩んでいる同志を救うんだ、って。あなた方はあなた方同志で救い合ったらどう? って。だから、私がそう言ったの。私たちには自分だけを救う力さえありゃしない。そんなら亡んでしまうがいい、ってそう言うのよ、その女《ひと》は。それが自然の法則だ。自分たちは自分たちだけで血みどろだ、って。だから、私が共通な悩みっていえば、人間は、ちょうど地球自身と同じように、この世の中は、階級という大きな公転を続けながら、その中に、父子、兄弟、夫婦、朋友、その他あらゆる無数の私転関係の悩みが悩まれつつ動いて行くのじゃないの、って言うと、そんな小っぽけな悩みなんか踏み越えて行ってしまうんだ。自分たちは小ブルジョア階級のあげる悲鳴なんかに対して、断然感傷的になってはいられない。だけど、あなたにはお友だち甲斐《がい》によいことを教えてあげるわ。――恋をしなさい。あなた方が恋をすれば、それこそ、あらゆる倦怠と閑暇《ひま》を利用して、清らかに恋し合えるじゃないの。あらゆる悩みなんか、皆んなその中に熔かしこんでしまうようにね。そこへ行くと自分たちは主義の仕事が精力の九割を割《さ》いている。後の一割でしか恋愛に力を別たれない。だから、自分たちは一人の恋人なんかを守り続けてはいられない。それに一人の恋人を守るということは、一つの偶像を作ることだ。一つの概念を作ることだ。それは主義の最大の敵だ。だから、……そんなことを言うのよ。私、何んだか、心のありかが解らないような、頼りない気がしてきて、……
――君はそんなに悩み事があるの?
――私は母が違うの。ほんとのお母さんは私が二つの時に死んでしまったの。
――え?
――私は何んとも思っていないのに、今のお継母《かあ》さんは、私がまだ三つか四つのころ、まだ意識がやっと牛乳の罎《びん》から離れたころから、もう、自分を見る眼つきの中に、限りない憎悪《にくしみ》の光が宿っているって、そう言っては父を困らしたんですって。お継母さんはこう言うのよ。つまり私を生んだ母親が、生前、自分の夫が愛情を感ずるあらゆる女性に対して懐《いだ》いていた憎悪の感情が、私の身体の中に、蒼白い潜在意識となって潜んでいて、それがまだあどけない私の瞳の底に、無意識的に、暗の中の黒猫の眼のように光っているんだ、ってそう言うのよ。私が何かにつけて、物事を僻《ひが》ん
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