ニイチエ雑観
超人の如く潔き没落を憧憬するニイチエの日本精神に就て
生田長江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)駱馬《ラーマ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)表面上|波斯《ペルシヤ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]
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 たとへ大多数の通俗社会主義的民主々義的批評家等や、彼等の無反省な白人的優越感と近代的先入見とから遠くかけ離れてゐないアナトール・フランス、バアナアド・シヨオ程度の著作家等が、私達のこの日本に関してどんな事を言ひ来たつてゐたにもせよ、今尚言ひ続けてゐるにもせよ尚且つ厳密に天才者と言はるべき程の天才者等は、全く何等の除外例もなく、悉く皆、内面的な意味での貴族主義者であり、従つてさうした意味での貴族主義精神の「本場」である日本に対して日本的な一切の物に対して、限りなく深い憧憬と愛着とを持つてゐた。
 さて、彼等の中に於ても私共の特別に愛着してゐる者に就て言へば、第一はハインリツヒ・ハイネである。即ち、その同国人から、並びに同時代者から最も理解され難く、最も誤解され易い素質と、超独逸人的に驚く可き程の素晴らしい天分とを有つてゐた点に於て、又自分自身さへも独逸的なものに嘔気を感ずると屡々思つたり口に出して言つたりしながらも、尚且つその実内密な愛着を有ち乍ら、他の何人よりも大きな寄与を独逸人と独逸語とに対してなしてゐたその業績や、反語的な運命の学校から、結局たゞ自己愚弄の形式で以て、所謂道化者の如くにのみ語ることを学ばなければならなかつたその運命などに於て、我がフリイドリツヒ・ニイチエと特殊の非常に深い類縁関係を持つて居り、又或意味ではニイチエの一原型とも称すべきところの、あのハイネは、恐らく僅かにかの有名なシイボルトの「日本誌」とか、ロシアの某提督の「紀行」とか言つた位の、極めて乏しい材料を通して見たに過ぎなかつたであらうけれど尚且つ、その不可思議な天才的直感に助けられての事であらうか、意外にもよく日本といふものゝ本質的な長所を見抜いてゐて、そして世上の所謂日本贔屓なぞに見る如き、薄つぺらなものとは全く異つた。私共日本人から本当に嬉し涙の自然に流れ落ちるやうな、優れた理解と愛着とをこの日本へ対して有つてゐてくれたとのことである。
 ニイチエがその健全な意識を失くしたのは、一八八〇年代の終りであつて、それまでには、憲法制定の準備の為に出掛けて行つた伊藤博文一行だとか、それに前後して行つた数多くの外交官だとか留学生だとかいふやうな日本の知識階級から直接にさへ、独逸の知識階級も、既にかなりによく日本といふもの並びに日本的な様々のものを、学び知つてゐたらうと推察される。
 従つてニイチエがハイネの場合と比較も出来ない程日本へのよりよき理解を有ち得てゐたことに不思議もないが、兎に角ニイチエの日本精神、日本文化、日本美術、その他あらゆる日本的なものに対して、全く情熱的な愛着偏好を示してゐてくれるのは、これ又実に私共にとつての大なる喜びである。
 一八八五年十二月二十日ニイスから彼の「駱馬《ラーマ》」(妹のことを彼はかう呼んでゐる)へあてゝニイチエから書き送つた手紙の中には次の如く書かれてゐる――「若し私がもつと健康で、十分に金を持つてゐるならば、私は単に尚快活であり得る為ばかりにも、日本へ移住したであらう。(私の最も大に驚いた事には、ザイトリツツもその内面生活の上にかうした変化を経験したのだ。彼は芸術家的に、今の所最初の独逸的日本人である――同封の、彼に関する新聞記事を読んで御覧!)
 私は※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ネチアにゐるのが好きだ。あそこでは易々と日本風にやつて行けるからだ――つまり、それをやるのに必要な二三の条件があそこにあるんだよ」
 アレヴイイのニイチエ伝によれば、ニイチエは右の手紙の書かれたより少し以前に、独逸を去るに先立つて、彼の旧友ザイトリツツ男爵をミユンヘンに訪ねた。そして日本美術の珍らしい蒐集を見せて貰つて、稍羨望を禁じ難かつた程の深い興味を覚えたといふのである。
 シヨオペンハウエルの有名な「意志及び表象としての世界」が、仏教思想をその根本的基礎にとつてゐるといふことに就いては、読者諸君の殆んど総てが、少くとも何程かを耳にされて居ることであらうと思ふ。
 ところで、私の見るところを言へば、我がフリイドリツヒ・ニイチエの哲学がまた、表面上|波斯《ペルシヤ》の古代宗教思想の継承でゞもあつたかの如く見えてゐるにも拘らず、内実はそれよりも、ずつと余計に、仏教思想と深い縁類関係を有つて居ることを知らなけ
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