からではなかろうか。既に近松門左衛門の『女殺油地獄』の中に――五月五日は女は家と昔から――という文句があるが、これも印地打のために女子供が怪我をするといけないから表へ出るなと、戒めたものであるらしい。
 またそれほど烈《はげ》しければこそ、多くの怪我人も出来て、後には禁止されたのである。

       六

 荒々しいといえば、五月人形の内、鍾馗《しょうき》にしろ金時《きんとき》にしろ、皆勇ましく荒々しいものだが、鍾馗は玄宗皇帝の笛を盗んだ鬼を捉《とら》えた人というし、金時は今も金時山に手玉石という大きな石が残っている位強かったというが、その子の金平《きんぴら》も、きんぴら牛蒡《ごぼう》やきんぴら糊に名を残したばかりか、江戸初期の芝居や浄瑠璃には、なくてはならない大立者《おおだてもの》だ。この浄瑠璃を語り初めた和泉太夫というのは、高座へ上るには二尺余りの鉄扇を持って出て、毎晩舞台を叩きこわしたそうだが、そんな殺伐なことがまだ戦国時代の血腥《ちなまぐさ》い風の脱け切らぬ江戸ッ子の嗜好《しこう》に投じて、遂には市川流の荒事《あらごと》という独特な芸術をすら生んだのだ。
 荒事といえば二代目の団十郎にこんな逸話がある。それは或る時座敷に招《よ》ばれて、その席上で荒事を所望されたので、立上って座敷の柱をゆさゆさと揺ぶり、「これが荒事でございます」といったら、一同|喝采《かっさい》して悦んだという事が或る本に書いてあった。

       七

 印地打が朝鮮渡来の風習だという事は前に言ったが、同じ節句の柏餅も、やはり支那かもしくは印度《インド》あたりから伝えられたものであろう。というのは、今でも印度辺りでは客に出す食物は、大抵木の葉に盛って捧げられる風習がある。つまり木の葉は清浄なものとしてあるのだが、それらのことが柏餅を生み椿餅を生み、そして編笠餅《あみがさもち》や乃至《ないし》桜餅を生んだと見ても差支えないように考える。
 殊に昔、支那や朝鮮の種族が、日本へ移住した数は尠《すく》なからぬので、既に僧行基が奈良のある寺で説教を試みた時、髪に豚の脂の匂いのする女が来て聴聞《ちょうもん》したという話がある位、従ってそれらの部落で膳椀《ぜんわん》の代りに木の葉を用いたのが、伝播《でんぱ》したとも考えられぬ事はない。唯《ただ》幸いにして日本人は肉が嫌いであったがため、あの支那料
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