、これに類似した田行燈というものを百姓家では用いた。これは今でも一《いち》の関《せき》辺へ行くと遺《のこ》っている。
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 支那から伝来して来た竹紙《ちくし》という、紙を撚合《よりあわ》せて作った火縄《ひなわ》のようなものがあったが、これに点火されておっても、一見消えた如くで、一吹きすると火を現わすのでなかなか経済的で、煙草の火附《ひつけ》に非常に便利がられた。また明治の初年には龕燈提灯《がんどうちょうちん》という、如何に上下左右するも中の火は常に安定の状態にあるように、巧《たくみ》に造られたものがあったが、現に熊本県下にはまだ残存している。また当時の質屋などでは必らず金網のボンボリを用いた。これはよそからの色々な大切なものを保管しているので、万一を慮《おもんぱ》かって特に金網で警戒したのである。
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 明治時代のさる小説家が生半可《なまはんか》で、彼の小説中に質屋の倉庫に提灯を持って入ったと書いて識者の笑いを招いた事もある。越えて明治十年頃と思うが、始めて洋燈《ランプ》が移入された当時の洋燈は、パリーだとか倫敦辺《ロンドンあたり》で出来た舶来品で、割合に明《あかる》いものであったが、困ることには「ほや」などが壊《こわ》れても、部分的な破損を補う事が不可能で、全部新規に買入れねばならない不便があった。石油なども口を封蝋《ふうろう》で缶《かん》してある大きな罎入《かめいり》を一缶《ひとかん》ずつ購《もと》めねばならなかった。
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 そんな具合でランプを使用する家とては、ほんの油町に一軒、人形町に一軒、日本橋に一軒という稀《まれ》なものであったが、それが瓦斯燈《ガスとう》に変り、電燈に移って今日では五十|燭光《しょっこう》でもまだ暗いというような時代になって、ランプさえもよほどの山間僻地《さんかんへきち》でも全く見られない、時世の飛躍的な推移は驚愕《きょうがく》の外はない。瓦斯の入来したのは明治十三、四年の頃で、当時|吉原《よしわら》の金瓶大黒という女郎屋の主人が、東京のものを一手に引受けていた時があった。昔のものは花瓦斯といって焔の上に何も蔽《おお》わず、マントルをかけたのは後年である。
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 江戸から東京への移り変りは全く躍進的で、総てが全く隔世《かくせい》の転換をしている。この向島も全く昔の俤《おもかげ》は失
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