た再び得がたい三千有余の珍らしい玩具や、江戸の貴重な資料を全部焼失したが、別して惜しいとは思わない。虚心坦懐《きょしんたんかい》、去るものを追わず、来るものは拒まずという、未練も執着もない無碍《むがい》な境地が私の心である。それ故私の趣味は常に変遷転々《へんせんてんてん》として極まるを知らず、ただ世界に遊ぶという気持で、江戸のみに限られていない。私の若い時代は江戸趣味どころか、かえって福沢諭吉先生の開明的な思想に鞭撻《べんたつ》されて欧化に憧れ、非常な勢いで西洋を模倣し、家の柱などはドリックに削《けず》り、ベッドに寝る、バタを食べ、頭髪までも赤く縮《ちぢ》らしたいと願ったほどの心酔ぶりだった。そうはいえ私は父から受け継いだのか、多く見、多く聞き、多く楽しむという性格に恵まれて、江戸の事も比較的多く見聞きし得たのである。それもただ自らプレイする気持だけで、後世に語り伝えようと思うて研究した訳ではないが、お望みとあらばとにかく漫然であるが、見聞の一端を思い出づるままにとりとめもなくお話して見よう。
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 古代からダークとライトとは、文明と非常に密接な関係を持つもので、文明はあかりを伴うものである。元禄時代の如きは非常に明《あかる》い気持があったがやはり江戸時代は暗かった。
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 花火について見るも、今日に較《くら》ぶればとても幼稚なもので、今見るような華やかなものはなかった。何んの変哲も光彩もないただの火の二、三丈も飛び上るものが、花火として大騒ぎをされたのである。一体花火は暗い所によく映《は》ゆるものであるから、今日は化学が進歩して色々のものが工夫されているが、同時に囲りが明るくされているので、かえってよく環境《かんきょう》と照映しない憾《うら》みがある。
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 昔から花火屋のある処は暗いものの例となっている位で、店の真中に一本の燈心を灯し、これを繞《めぐ》って飾られている火薬に、朱書《しゅがき》された花火という字が茫然と浮出《うきだ》している情景は、子供心に忘れられない記憶の一つで、暗いものの標語に花火屋の行燈《あんどん》というが、全くその通りである。当時は花火の種類も僅《わず》かで、大山桜とか鼠というような、ほんのシューシューと音をたてて、地上にただ落ちるだけ位のつまらない程度のもので、それでもまたミケンジャクや烏万燈等と
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