、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多《めった》にこの夜景と早替りの工夫をして見せませんでした。このレンズは初め土佐の山内侯が外国から取寄せられたもので、それが渡り渡って典物《てんぶつ》となり、遂に父の手に入ったもので、当時よほど珍物に思われていたものと見えます。その小屋の看板にした万国一覧の四字は、西郷さんが、まだ吉之助といっていた頃に書いて下さったものだといいます。それで眼鏡を見せ、お茶を飲ませて一銭貰ったのです。処で例の新門辰五郎《しんもんたつごろう》が、見世物をするならおれ[#「おれ」に傍点]の処に渡りをつけろ、といって来た事がありました。しかし父は変lですし、それに水戸の藩から出た武士|気質《かたぎ》は、なかなか一朝一夕にぬけないで、新門のいう話なぞはまるで初めから取合わず、この興行の仕舞まで渡りをつけないで、別派の見世物として取扱われていたのでした。
それから次には伊井蓉峰《いいようほう》の親父《おやじ》さんのヘヾライ[#「ヘヾライ」に傍点]さん。まるで毛唐人《けとうじん》のような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けたかというと、これにはなかなか由来があります。これは変人の事を変方来な人といって、この変方来を、もう一つ通り越したのでヘヾライだという訳だそうです。このヘヾライさんは、写真屋を始めてなかなか繁昌しました。写真師ではこの人の他に、北庭筑波《きたにわつくば》、その弟子に花輪吉野などいうやはり奇人がいました。
次に、久里浜で外国船が来たのを、十里離れて遠眼鏡《とおめがね》で見て、それを注進したという、あの名高い、下岡蓮杖《しもおかれんじょう》さんが、やはり寺内で函館戦争、台湾戦争の絵をかいて見せました。これは今でも九段の遊就館《ゆうしゅうかん》にあります。この他、浅草で始めて電気の見世物をかけたのは広瀬じゅこくさんで、太鼓に指をふれると、それが自然に鳴ったり、人形の髪の毛が自然に立ったりする処を見せました。
曲馬が東京に来た初めでしょう。仏蘭西《フランス》人のスリエというのが、天幕《てんまく》を張って寺内で興行しました。曲馬の馬で非常にいいのを沢山外国から連れて来たもので、私などは毎日のように出掛けて、それを見せてもらい
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