に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――薬種《やくしゅ》屋の虎屋の横町の俗称――今の有名な泥鰌《どじょう》屋の横町辺が中心です。西両国、今の公園地の前の大川縁《おおかわべり》に、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、長左衛門という寄席がありましたっけ。有名な羽衣《はごろも》せんべいも、加賀屋横町にあったので、この辺はゴッタ返しのてんやわんや[#「てんやわんや」に傍点]の騒《さわぎ》でした。東両国では、あわ雪、西で五色茶漬は名代《なだい》でした。朝は青物の朝市がある。午《ひる》からは各種の露店が出る、銀流《ぎんなが》し、矢場《やば》、賭博《とばく》がある、大道講釈やまめ蔵が出る――という有様で、その上狭い処に溢《あふ》れかかった小便桶が並んであるなど、乱暴なものだ。また並び床といって、三十軒も床屋があって、鬢盥《びんだらい》を控えてやっているのは、江戸絵にある通りです。この辺の、のでん賭博というのは、数人寄って賽《さい》を転がしている鼻《はな》ッ張《ぱり》が、田舎者を釣りよせては巻き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです。この辺では屋台店がまた盛んで、卯之花鮨《からずし》とか、おでんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。踵《かかと》をちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。それから露店のイカサマ道具屋の罪の深いやり方のには、こういうのがある。これはちょっと淋《さび》しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、小さい菰座《こもざ》を拡げて、珊瑚珠《さんごじゅ》、銀簪《ぎんかん》、銀煙管《ぎんギセル》なんかを、一つ二つずつ置いて、羊羹《ようかん》色した紋付《もんつき》を羽織って、ちょっと容体《ようだい》ぶったのがチョコンと坐っている。女や田舎ものらが通りかかると、先に男がいくばくかに値をつけて、わざと立去ってしまうと、後で紋付のが「時が時ならこんな珠を二円や三円で売るのじゃないにアア/\」とか何とか述懐して、溜呼吸《ためいき》をついている。女客は立止って珠を見て、幾分かで買うニ、イカサマ師はそのまま一つ処にはいない、という風に、維新の際の武家高家の零落流行に連れて、零落者と見せかけてのイカモノ師が多かったなどは、他の時代には見られぬ詐偽《さぎ》商人です。また「アラボシ」といって、新らしいものばかりの露店がある。これは性《しょう》が悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際《こんりんざい》素通りの聞放しをさせない、袂《たもと》を握って客が値をつけるまで離さない。買うつもりで価を聞いたのだろうから、いくばくか値を附けろ、といったような剣幕で、二円も三円もとの云価《いいね》を二十銭三十銭にも附けられないという処を見込んだ悪商人が多く「アラボシ」にあった。今夜店の植木屋などの、法外な事をいうのは、これらアラボシ商人の余風なのでしょう。一体がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切《しき》っていた。江戸ッ子でないものは人でないような扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙《じゅうりん》せられた、本来江戸児とは比較にもならない頓馬《とんま》な地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心《てきがいしん》が、江戸ッ子の考えに瞑々《めいめい》の中《うち》にあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。
 散髪《ざんぱつ》になり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘《かつら》を髷《まげ》の上に冠ったのなどがありますし、当時の床屋の表には、切った髷を幾《いく》つも吊してあったのは奇観だった。
 また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子《はりこ》の筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作《つくり》ものなどを附け、竹では撓《たわ》まって保てなくなると、屋の棟《むね》に飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧《たこ》の大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚《あ》げるのは浅草とか、夜鷹《よたか》の出た大根河岸《だいこがし》などでした。秩父屋《ちちぶや》というのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町《こでんまちょう》へ引移《ひきうつ》して、飾提灯《かざりちょうちん》即ち盆提灯や鬼灯提燈《ほおずきちょうちん》を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋《うまやばし》の、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸《うな》りから考えた凧が流行らなくなると、鯨屋になって、今でも鯨屋をしています。
 それから東京市の街燈を請負《うけお》って、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒の松本でした。燈はランプで、底の方の拡がった葉鉄《ぶりき》の四角なのでした。また今パールとか何とかいって、白粉《おしろい》下のような美顔水《びがんすい》というような化粧の水が沢山ありますが、昔では例の式亭三馬《しきていさんば》が作った「江戸の水」があるばかりなのが、明治になって早くこの種のものを売出したのが「小町水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社《けんゆうしゃ》の紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居《ぶんししばい》に、ドロドロの火薬係をやった人でして、その化粧水をポマドンヌールと命《なづ》けていた。どういう意味か珍な名のものだ。とにかく売れたものでしたね。この翁屋の主人は、紅葉さんなんかと友人で、文墨《ぶんぼく》の交《まじわり》がある位で、ちょっと変った面白い人で、第三回の博覧会の時でしたかに、会場内の厠《かわや》の下掃除を引受けて、御手前の防臭剤かなんかを撒《ま》かしていましたが、終には防臭剤を博覧会へ出かけちゃ、自分で撒いていたので可笑《おか》しかった。その人も故人になったそうですが、若くって惜しいことでしたね。
[#地から1字上げ](明治四十二年八月『趣味』第四巻第八号)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
※「十ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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