ん、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、
「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。」
「そうでした、覚えています。可愛らしい佳《い》い娘さんでした。」と紳士も打ちながら答える。
「そのお正《しょう》がこの春国府津へ嫁《かたず》いたのです。」
「それはお目出度い。」
「ところが余りお目出度くないんでしてな。」
「それは又?」
「どういうものか折合が善くありませんで。」
「それは善くない。」
「それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。」
「それでは早く行く方が可《よ》い。……」
「なに、どうせ二晩三晩は宿泊《とまる》のですから急がないでも可《い》いのです。」と平気で盤に向っているので、紳士《しんし》もその気になり何時《いつし》かお正《しょう》の問題は忘れて了っている。
浴室《ゆどの》では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。
二
箱根細工の店では大友が種々の談話《はなし》の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア此《この》二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。貴下《あなた》は何時ごろお正《しょう》さんを御存知で御座います?」
「左様《そう》サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正《しょう》さんは二十四の春|嫁《かたず》いたというものだ。」
「全く左様《そう》で御座います。」と女主人《じょしゅじん》は言って、急に声をひそめて、「処《ところ》が可哀そうに余り面白く行かないとか大《だい》ぶん紛糾《ごたごた》があるようで御座います。お正さんは二十四でも未《ま》だ若い盛で御座いますが、旦那は五十|幾歳《いくつ》とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
大友の心にはこの二三年|前来《ぜんらい》、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠《わだかま》っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感《おもい》に堪え得ないことがある。そして此《この》情想《おもい》に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる
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