|繁《しげ》れる小陰に釣を垂《たる》る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。
 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮《あざ》やかな日景《ひかげ》は遠村近郊小丘樹林を隈《くま》なく照らしている、二人の背はこの夕陽《ゆうひ》をあびてその傾《かたぶ》いた麦藁帽子《むぎわらぼうし》とその白い湯衣地《ゆかたじ》とを真《ま》ともに照りつけられている。
 二人とも余り多く話さないで何となく物思に沈んでいたようであったが、突然校長の細川は富岡老人の方を振向いて
「先生は今夜大津の婚礼に招かれましたか」
「ウン招《よ》ばれたが乃公《おれ》は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。
「貴様《おまえ》はどうじゃ?」
「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招《よび》もしません」
「招んだって行くな。あんな軽薄な奴《やつ》のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ! あれから見ると同じ大学を出ても高山や長谷川は人間が一等上だのう、その中《うち》でも高山は余程見込がある男だぞ」
 細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視《みつ》めている。富岡老人も黙って了《しま》った。
 暫《しばら》くすると川向《かわむこう》の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭《かげ》で姿は能《よ》く見えぬが、帽子と洋傘《こうもり》とが折り折り木間《このま》から隠見する。そして声音《こわね》で明らかに一人は大津定二郎一人は友人|某《ぼう》、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処《ここ》に蹲居《しゃが》んでいることは無論気がつかない。
「だって貴様《あなた》は富岡のお梅|嬢《さん》に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。
「嘘《うそ》サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺《がんこおやじ》の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐《かわい》そうなものだ、あの高慢|狂気《きちがい》のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。

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