き、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈《つのはず》などの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池《いのかしらいけ》善福池などより流れ出でて神田上水《かんだじょうすい》となるもの。目黒辺を流れて品海《ひんかい》に入るもの。渋谷辺を流れて金杉《かなすぎ》に出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝《さいりゅうしょうきょ》に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠《かく》れつ現われつして、しかも曲《まが》りくねって(小金井は取除け)流るる趣《おもむき》は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹《ひ》くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長《せいちょう》したので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川を除《のぞ》いては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹《ひ》いたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色に適《かな》ってみえるように思われてきた。
自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相|携《たずさ》えて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月|冴《さ》えて風清く、野も林も白紗《はくしゃ》につつまれしようにて、何ともいいがたき良夜《りょうや》であった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、欄《らん》に倚《よ》って何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁《ろうおう》がまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧《もうろう》たる楕円形《だえんけい》のうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩《ゆ》るやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫《はむし》が水を摶《う》つごとに細紋起きてしばらく月の面《おも》に小皺《こじわ》がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕《くだ》けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
大根の時節に、近郊《きんごう》を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。
九
かならずしも道玄坂《どうげんざか》といわず、また白金《しろがね》といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道《おうめみち》となり、あるいは中原道《なかはらみち》となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地《りんち》田圃《でんぽ》に突入する処の、市街ともつかず宿駅《しゅくえき》ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈《てい》しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚《よ》び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹《ひ》くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外《まちはず》れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎《いなか》の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹《ほうふく》するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点《とくてん》をいえば、大都会の生活の名残《なごり》と田舎の生活の余波《よは》とがここで落ちあって、緩《ゆる》やかにうず[#「うず」に傍点]を巻いているようにも思われる。
見たまえ、そこに片眼の犬が蹲《うずくま》っている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外《まちはず》れの領分である。
見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく[#「わめく」に傍点]女の影法師が障子《しょうじ》に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭《にお》いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀《よど》んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車《からぐるま》の轍《わだち》の響が喧《やかま》しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
見たまえ、鍛冶工《かじや》の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話し
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