点]帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は単直《いきなり》前借の金のことを訊《き》いた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を査《あらた》めて
「たった二円」
「ああ」
「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」
「だって貸さなきゃ仕方がない」
「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は空虚《からっぽ》の炭籠《すみとり》を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干《いくら》も残りや仕ない。……」
磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管《きせる》をポンと強く打《はた》いて、膳《ぜん》を引寄せ手盛《てもり》で飯を食い初めた。ただ白湯《さゆ》を打《ぶっ》かけてザクザク流し込むのだが、それが如何《いか》にも美味《うま》そうであった。
お源は亭主のこの所為《しょさ》に気を呑《のま》れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ止《や》めそうもないので呆《あき》れもし、可笑《おかし》くもなり
「お前さんそんなにお腹《なか》が空《す》いたの」
磯は更に一椀《いっぱい》盛《つ》けながら「俺《おれ》は今日|半食《おやつ》を食わないのだ」
「どうして」
「今日|彼時《あれ》から往《い》ったら親方が厭《いや》な顔をしてこの多忙《いそが》しい中を何で遅く来ると小言《こごと》を言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は手前《てめえ》の勝手だって言やアがる、糞忌々《くそいまいま》しいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお茶飯《やつ》が出たが、俺は見向《みむき》も仕ないんだ。お女中が来て今日はお美味《いし》い海苔巻《のりまき》だから早やく来て食べろと言ったが当頭《とうとう》俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く厭《いや》だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も手前《てめえ》の図々しいのには敵《かな》わんよ、そらこれで可《よ》かろうって二円出して与《よ》こしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹の空《す》いた訳と二円|外《ほか》前借が出来なかった理由《わけ》を一遍に話して了《しま》った。そして話し了《おわ》ったころ漸《やっ》と箸《はし》を置いた。
全体磯吉は無口の男で又た口の利《き》きようも下手《へた》だがどうかすると啖火交《たんかまじ》りで今のように威勢の可い物の言い振《ぶり》をすることもある、お源にはこれが頗《すこぶ》る嬉《うれ》しかったのである。然しお源には連添《つれそっ》てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者《なまけもの》だか働人《はたらきにん》だか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれで済《すん》でゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのが宅《うち》の磯|様《さん》だと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し何処《どこ》まで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だと頼《たの》もしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外|意久地《いくじ》のない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困り抜《ぬい》た時などで、そう思うと情《なさけ》なくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。
実際磯吉は所謂《いわゆ》る「解らん男」で、大庭の女連《おんなれん》は何となく薄気味《うすきび》悪く思っていた。だからお徳までが磯には憚《はばか》る風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時など嬉《うれし》さが込上げて来るのであった。
それで結極のべつ貧乏の仕飽《しあき》をして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、何時《いつ》も物置か古倉の隅《すみこ》のような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の女房連《かかあれん》から解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。
磯吉の食事《めし》が済むとお源は笊《ざる》を持て駈出《かけだ》して出たが、やがて量炭《はかりずみ》を買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら喋舌《しゃべっ》て聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。
そのうち磯が眠そうに大欠伸《おおあくび》をしたので、お源は垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》を一枚敷いて一枚|被《か》けて二人一緒に一個身体《ひとつからだ》のようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間
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