い。まして自分が見たのだから狼狽《うろた》えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく後《のち》の方に判断したいので、遂にそう心で決定《きめ》てともかく何人《だれ》にもこの事は言わんことにした。
しかし万一《ひょっと》もし盗んでいたとすると放下《うっちゃ》って置いては後《あと》が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行《つづけ》ることは得《え》為《す》すまいと考えたから尚《な》お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。
どちらにしてもお徳が言った通り、彼処《あそこ》へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。
午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅《かえ》って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論《もちろん》、真蔵も引出されて相槌《あいづち》を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場《かんこうば》で大きな人形を強請《ねだ》って困らしたの、電車の中に泥酔者《よっぱらい》が居て衆人《みんな》を苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天《あなた》は寒むがり坊だから大徳で上等|飛切《とびきり》の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度《とめど》がない。そして聞く者よりか喋舌《しゃべっ》ている連中の方が余程《よっぽど》面白そうであった。
先ずこのがやがやが一頻《ひとしきり》止《す》むとお徳は急に何か思い出したように起《たっ》て勝手口を出たが暫時《しばらく》して返って来て、妙に真面目《まじめ》な顔をして眼を円《まる》くして、
「まア驚いた!」と低い声で言って、人々《みんな》の顔をきょろきょろ見廻わした。人々《みんな》も何事が起ったかとお徳の顔を見る。
「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日|屋外《そと》の炭をお出しになりや仕ませんね?」と訊《き》いた。
「否《いいえ》、私は炭籠《すみかご》の炭ほか使《つかわ》ないよ」
「そうら解った、私《わたくし》は去日《このあいだ》からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何《いくら》炭屋が巧計《ずる》をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈《はず》がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当《おもいあた》ってる事があるから昨日《きのう》お源さんの留守に障子の破目《やぶれめ》から内《なか》をちょい[#「ちょい」に傍点]と覗《のぞ》いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢《やぶれひばち》に佐倉が二片《ふたつ》ちゃんと埋《いか》って灰が被《か》けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早《もう》必定《きっと》そうだと決定《きめ》て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄《わな》をかけて此方《こっち》で験《た》めした上と考がえましたから今日|行《や》って試《み》たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。
「どんな係蹄《わな》をかけたの?」とお清が心配そうに訊《き》いた。
「今日出る前に上に並んだ炭に一々|符号《しるし》を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号《しるし》を附けた佐倉が四個《よっつ》そっくり無くなっているので御座います。そして土竈《どがま》は大きなのを二個《ふたつ》上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」
「まアどうしたと云うのだろう」お清は呆《あき》れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は偖《さて》は愈々《いよいよ》と思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張《やはり》見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。
「で御座いますから炭泥棒は何人《だれ》だか最早《もう》解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々《みんな》がこの大事件を喫驚《びっくり》してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那《だんな》を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時《しばら》く誰も黙っていたが
「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々|焦急《じれっ》たくなり、
「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干《いくら》でも取られます」
「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲《うっちゃ》って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由《わけ》を打明けないと決心《きめ》てるから、仕様事なしにこう言った。
「充満《いっぱい》で御座います」とお徳は一言で拒絶した。
「そうか」真蔵は黙って了う。
「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚《とだな》の下を明けて当分ともかく彼処《あそこ》へ炭を入れ
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