日《きのふ》のやうだけれど。』
二人《ふたり》の言葉は一寸《ちよつ》と途断《とぎ》れた。そして何所《どこ》へともなく目的《あてど》なく歩《あるい》て居るのである。
『今のこれとは何時《いつ》からです。』と銀之助は又《ま》た親指を出した。
『これはお止《よ》しなさいよ、変ですから。一昨年《をととし》の冬からです。』
『それまでは。』
『貴様《あなた》と不可《いけ》なくなつてから唯《た》だ家《うち》に居ました。』
『たゞ。』
『そうよ。』と言つて『おゝ薄ら寒い』と静《しづ》は銀之助に寄り添《そつ》た。銀之助は思はず左の手を静《しづ》の肩に掛けかけたが止《よ》した。
『僕も酔《よひ》が醒《さ》めかゝつて寒くなつて来た。静《しづ》ちやんさへ差《さし》つかへ無けれア彼《あ》の角《かど》の西洋料理へ上がつてゆつくり話しませう。』
 静《しづ》は一寸《ちよつと》考《かんが》へて居たが
『最早《もう》遅いでせう。』
『ナアに未《ま》だ。』
 静《しづ》は又《また》一寸《ちよつと》考へて
『貴郎《あなた》私《わたし》のお願《ねがひ》を叶《かな》へて下すつて。』と言はれて気が着《つ》き、銀之助は停止《たちど》まつた。
『実は僕《ぼく》今夜は五円札一枚しか持《もつ》て居ないのだ。これは僕の小使銭《こづかひせん》の余りだから可《い》いやうなものゝ若《も》しか二十円と纏《まとま》ると、鍵《かぎ》の番人をして居る妻君《さいくん》の手からは兎《と》ても取れつこない。どうかして僕が他《よそ》から工面《くめん》しなければならないのは貴女《あなた》にも解《わか》るでせう。だから今夜はこれだけお持《もち》なさい。余《あと》は二三日|中《うち》に如何《どう》にか為《し》ますから。』と紙入《かみいれ》から札《さつ》を出《だし》て静《しづ》に渡した。
『ほんとに私《わたし》は、こんなことが貴郎《あなた》に言はれた義理ぢアないんですけれど、手紙で申し上げたやうな訳《わけ》で……』
『最早《もう》可《い》いよ、僕には解《わか》つてるから。』
『だつて全く貴様《あなた》にお願ひして見る外《ほか》方法が尽《つき》ちやつたのですよ……。』
『最早《もう》解《わか》つてますよ。それで余《あと》の分《ぶん》は何《いづ》れ二三日|中《うち》に持《もつ》て来ます。』

 銀之助は静《しづ》に分《わか》れて最早《もう》歩くのが慊《いや》になり、車を飛ばして自宅《うち》に帰つた。遅くなるとか、閉《し》めても可《い》いとか房《ふさ》に言つたのを忘れて了《しま》つたのである。
 帰つて見ると未《ま》だ元子《もとこ》は帰宅《かへつ》て居ない。房《ふさ》も気慊《きげん》を取る言葉がないので沈黙《だまつ》て横を向いてると、銀之助は自分でウヰスキーの瓶《びん》とコツプを持《もつ》て二階へ駈《か》け上がつた。
 精《き》で三四杯あほり立てたので酔《よひ》が一時《いつとき》に発して眼《め》がぐらぐらして来た。此時《このとき》
『断然|元子《もとこ》を追ひ出して静《しづ》を奪つて来る。卑《いや》しくつても節操《みさを》がなくつても静《しづ》の方が可《い》い』といふ感が猛然と彼の頭に上《の》ぼつた。
『静《しづ》が可《い》い、静《しづ》が可《い》い』と彼は心に繰返《くりかへ》しながら室内をのそ/\歩いて居たが、突然ソハの上に倒れて両手を顔にあてゝ溢《あふ》るゝ涙を押《おさ》へた。
[#地付き](明治40[#「40」は縦中横]年9月「太陽」)



底本:「明治の文学 第22巻 国木田独歩」筑摩書房
   2001(平成13)年1月15日初版第1刷発行
底本の親本:「国木田独歩全集 4巻」学習研究社
   1966(昭和41)年1月
初出:「太陽」博文館
   1907(明治40)年9月
入力:iritamago
校正:多羅尾伴内
2004年7月15日作成
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