それに、わたしも近いうち朝鮮につれて行かれるのだから、もうこの世で会うことができるかできないかわかりません。」と言って、涙がほおをつとうて流れるのをふきもしないで僕の顔を見たまますすり泣きに泣いた。
 僕は陸のほうを見ながら黙ってこの話を聞いていた。家々のともし火は水に映ってきらきらとゆらいでいる。櫓《ろ》の音をゆるやかにきしらせながら大船の伝馬《てんま》をこいで行く男は、澄んだ声で船歌を流す。僕はこの時、少年《こども》ごころにも言い知られぬ悲哀《かなしみ》を感じた。
 たちまち小舟を飛ばして近づいて来た者がある、徳二郎であった。
「酒を持って来た!」と徳は大声で二三|間《げん》先から言った。
「うれしいのねえ、今、坊様に弟のことを話して泣いていたの」と女の言ううち、徳二郎の小舟はそばに来た。
「ハッハッヽヽヽヽ[#「ヽヽヽヽ」は底本では「ヽヽヽ」]おおかたそんなことだろうと酒を持って来たのだ、飲みな飲みな、わしが歌ってやる!」と徳二郎はすでに酔っているらしい。女は徳二郎の渡した大コップに、なみなみと酒をついで息もつかずに飲んだ。
「も一ツ」と今度は徳二郎がついでやったのを、女はまたもや一息《ひといき》に飲み干して、月に向かって酒気をほっと吐いた。
「サアそれでよい、これからわしが歌って聞かせる。」
「イイエ徳さん、わたしは思い切って泣きたい、ここならだれも見ていないし、聞こえもしないから泣かしてくださいな、思い切って泣かしてくださいな。」
「ハッハッヽヽヽヽそんなら泣きナ、坊様と二人で聞くから」と徳二郎は僕を見て笑った。
 女は突っ伏して大泣きに泣いた、さすがに声は立て得ないから背を波打たして苦しそうであった。徳二郎は急にまじめな顔をしてこのありさまを見ていたが、たちまち顔をそむけ、山のほうを見て黙っている、僕はしばらくして、
「徳、もう帰ろう」と言うや、女は急に頭を上げて、
「ごめんなさいよ、ほんとに坊様は、わたしの泣くのを見ていてもつまりません。……わたし、坊様が来てくださったので弟に会ったような気がいたしました。坊様もお達者で、早く大きくなって偉いかたになるのですよ」とおろおろ声で言って「徳さんほんとにあまりおそくなるとお宅《うち》に悪いから、早く坊様を連れてお帰りよ、わたしは今泣いたので、きのうからくさくさしていた胸がすい[#「すい」に傍点]たようだ。」

       ※[#アステリズム、1−12−94]

 女は僕らの舟を送って三四丁も来たが、徳二郎にしかられてこぐ手を止めた、そのうちに二|艘《そう》の小舟はだんだん遠ざかった。舟の別れんとする時、女は僕に向かっていつまでも、
「わたしの事を忘れんでいてくださいましナ」とくり返して言った。
 その後十七年の今日まで、僕はこの夜の光景をはっきりと覚えていて、忘れようとしても忘るることができないのである。今もなお、哀れな女の顔が目のさきにちらつく。そしてその夜、うすいかすみのように僕の心を包んだ一片の哀情《かなしみ》は、年とともに濃くなって、今はただその時の僕の心持ちを思い起こしてさえ堪えがたい、深い、静かな、やる瀬のない悲哀《かなしみ》を覚えるのである。
 その後徳二郎は僕の叔父《おじ》の世話で立派な百姓になり、今では二人の子の父親になっている。
 流れの女は朝鮮に流れ渡って後、さらにいずこの果てに漂泊してそのはかない生涯《しょうがい》を送っているやら、それともすでにこの世を辞して、むしろ静粛なる死の国におもむいたことやら、僕はむろん知らないし、徳二郎も知らんらしい。



底本:「号外・少年の悲哀 他六篇」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日 第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日 第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日 第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:鈴木厚司
2000年7月7日公開
2004年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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