ず歌う、飲まざるもまた歌いながら働くという至極元気のよい男であった。いつも楽しそうに見えるばかりか、心ばせも至って正しいので、孤児《みなしご》には珍しいと叔父をはじめ土地の者みんなに、感心せられていたのである。
「しかし叔父《おじ》さんにも叔母《おば》さんにも内証ですよ」と言って、徳二郎は歌いながら裏山に登ってしまった。
ころは夏の最中《もなか》、月影さやかなる夜であった。僕は徳二郎のあとについて田んぼにいで、稲の香高きあぜ道を走って川の堤に出た。堤は一段高く、ここに上《のぼ》れば広々とした野づら一面を見渡されるのである。まだ宵《よい》ながら月は高く澄んで、さえた光を野にも山にもみなぎらし、野末には靄《もや》かかりて夢のごとく、林は煙をこめて浮かぶがごとく、背《せ》の低い川やなぎの葉末に置く露は玉のように輝いている。小川の末はまもなく入り江、潮に満ちふくらんでいる。船板をつぎ合わしてかけた橋の急に低くなったように見ゆるのは水面の高くなったので、川やなぎは半ば水に沈んでいる。
堤の上はそよ吹く風あれど、川づらはさざ波だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の面《おも》は鏡のよう。徳二郎は堤をおり、橋の下につないである小舟のもやいを解いて、ひらりと乗ると、今まで静まりかえっていた水面がにわかに波紋を起こす。徳二郎は、
「坊様早く早く!」と僕を促しながら櫓《ろ》を立てた。
僕の飛び乗るが早いか、小舟は入り江のほうへと下りはじめた。
入り江に近づくにつれて川幅次第に広く、月は川づらにその清光をひたし、左右の堤は次第に遠ざかり、顧みれば川上はすでに靄《もや》にかくれて、舟はいつしか入り江にはいっているのである。
広々した湖のようなこの入り江を横ぎる舟は僕らの小舟ばかり。徳二郎はいつもの朗らかな声に引きかえ、この夜は小声で歌いながら静かに櫓《ろ》をこいでいる。潮の落ちた時は沼とも思わるる入り江が高潮と月の光とでまるで様子が変わり、僕にはいつも見慣れた泥臭《どろくさ》い入り江のような気がしなかった。南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光|蒼茫《そうぼう》としていずれか陸、いずれか水のけじめ[#「けじめ」に傍点]さえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。
西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大概は
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