ことば》がやや暴《あ》ろうなって参りました。舌も少し廻りかねる体《てい》でございました。
『話があるッてなんだろう、今すぐ聞いてもいいじゃアないか』
『あなた気がついていますか』と出し抜けに聞かれました。
『何をサ?』私は判じかねたのでございます。
『だからあなたはいけません、お幸はこれになりましたぜ』と腹に手を当てて見せましたので私はびっくりしてしまったのでございます。お幸は起って茶の間に逃げました。
『ほんとかえ、それは』と思わず声を小さくしました。
『ほんとかって、あなたがそれを知らんということはない、だけれども知らなかったらそれまでの話です、もうあなたも知ってみればこの後の方法《かた》をつけんじゃア』
『どうすればええだろう?』と私は気が顛倒《てんとう》していますから言うことがおずおずしています、そうしますと武はこわい眼をして、
『今になってそれを聞く法がありますか、初めからわかりきっているじゃありませんか、あなたの方でもこうなればこうと覚悟があるはずじゃ』
言われて見ればもっともな次第ですが、全く私にはなんの覚悟もなかったので、ただ夢中になってお幸のもとに通ったばかりですから、かように武から言われると文句が出ないのです。
私の黙っているのを見て、武はいまいましそうに舌打ちしましたが、
『すぐ公然《おもてむき》の女房になされ』
『女房に?』
『いやでござりますか?』
『いやじゃないが、今すぐと言うたところで叔母が承知するかせんかわからんじゃないか』
『叔母さんがなんといおうとあなたがその気ならなんでもない、あなたさえウンと言えば私が明日《あした》にでも表向きの夫婦にして見せます。なにもここばかりが世界じゃないから、叔母さんや村の者がぐずぐず言やア二人でどこへでも出てゆけばいい、人間一匹何をしても飯は喰えますぞ!』とまで云われて私も急に力が着きましたから、
『よろしい、それではともかくも一応叔母と相談して、叔母が承知すればよし、故障を言えばお前のいう通り、お幸と二人で大阪へでも東京へでも飛び出すばかりだが、お幸はこれを承知だろうか』
『ヘン! そんなことを私に聞くがものはありませんじゃないか、あなたの行くところならたとい火の中、水の底と来まサア!』と指の尖《さき》で私の頬を突いて先の剣幕にも似ず上気嫌なんです。
その晩はそれで帰りましたが、サアこの話がどうしても叔母に言い出されないのでございます。それと申すのは叔母も私の母より女難の一件を聞いていますし、母の死ぬる前にも叔母に女難のことは繰り返して頼んでおいたのですから、私の口からお幸のことでも言い出そうものならどんなに驚きもし、心配もするかわからないのでございます、次の朝から三日の間、私は今言おうか、もう切り出そうかと叔母の部屋を出たり入ったりしましたが、とうとう言うことができなかったのでございます。
叔母に言うことができないとすれば、お幸と二人で土地を逃げる他に仕方がないと一度は逃亡《かけおち》の仕度をして武の家に出かけましたが、それもイザとなって踏み出すことができませんでした。と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にたかまってきて、今までお幸のもとに通ったことを思うと『しまった』という念が湧《わ》き上るのでございます。それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、それこそ女難のどん底に落ちてしまうと、一念こうなりましてはかけおちもできなくなったのでございます。
それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げるという了見になりました、忘れもいたしません、六月十五日の夜、七日の晩から七日目の晩でございます、お幸に一目逢いたいという未練は山々でしたが、ここが大事の場合だと、母の法名を念仏のように唱えまして、暗《やみ》に乗じて山里を逃亡いたしました、その晩あたりは何も知らないお幸が私の来るのを待ち焦《こが》れていたのに違いありません。女に欺されてはならぬとばかり教えられた私がいつか罪もない女を欺すこととなり、女難を免《のが》れるつもりで女を捨てた時はもう大女難にかかっていたので、その時の私にはそれがわからなかったのでございます。
叔母の家から持ち出した金はわずか十円でございますから東京へ着きますと間もなく尺八を吹いて人の門に立たなければならぬ次第となりましたのです。それから二十八の年まで足かけ十年の間のことは申し上げますまい。国とは音信不通、東京にはもちろん、親族もなければ古い朋友もないので、種々さまざまのことをやって参りましたが、いつも女のことで大事の場合をしくじってしまいました。二十八になるまでには公然《おもてむき》の妻も一度は持ちましたが半年も続かず、女の方から逃げてしまいました。しかしその妻も私が本郷に下宿しておるうちにそこの娘とできやったのでございます。
二十八の時の女難が私の生涯の終りで、女難と一しょに目を亡くしてしまったのでございますから、それをお話しいたして長物語を切り上げることにいたします。
五
二十八の夏でございました、そのころはやや運が向いて参りまして、鉄道局の雇いとなり月給十八円|貰《もら》っていましたが女には懲《こ》りていますから女房も持たず、婆さんも雇わず、一人で六畳と三畳の長屋を借りまして自炊しながら局に通っておったのでございます。
住居《すまい》は愛宕下町《あたごしたまち》の狭い路次で、両側に長屋が立っています中のその一軒でした。長屋は両側とも六軒ずつ仕切ってありましたが、私の住んでいたのは一番奥で、すぐ前には大工の夫婦者が住んでいたのでございます。
長屋の者は大通りに住む方《かた》とは違いまして、御承知《ごぞんじ》でもございましょうが、互いに親しむのが早いもので、私が十二軒の奥に移りますと間もなく、十二軒の人は皆な私に挨拶するようになりました。
その中でも前に住む大工は年ごろが私と同じですし、朝出かける時と、晩帰える時とが大概同じでございますから始終顔を合わせますのでいつか懇意になり、しまいには大工の方からたびたび遊びに来るようになりました。
大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせ[#「いなせ」に傍点]で弁舌が爽《さわ》やかで至極面白い男でございました。ただ容貌《きりょう》はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこかに人のよい、悪く言えば少し抜けているようなところが見えて、それがまたこの人の愛嬌でございます。
私のところへ夜遊びに来ると、きっと酒の香《におい》をぷんぷんさせて、いきなり尻をまくってあぐらをかきます。そして私が酒を呑《の》まぬのを冷やかしたものでございます。
そしてまた、しきりと女房を持てとすすめました。そのついでにどうかいたしますと、『君なぞは女で苦労したこともない唐偏木《とうへんぼく》だから女のありがた味を知らないのだ』とやるのです。御本人はどうかと申しますと、あまり苦労をしたらしくもないので、その女房も、親方が世話をして持たしてくれたとかいうのでございます。
けれども私は東京に出てから十年の間、いろいろな苦労をしたに似ず、やはり持って生まれた性質《しょうぶん》と見えまして、烈しいこともできず、烈しい言葉すらあまり使わず、見たところ女などには近よることもできない野暮天に見えますので、大工の藤吉が唐偏木で女の味も知らぬというのは決して無理ではなかったのです。実際私は意気で女難にかかったというよりか皆んな、おとなしくって野暮だからかえって女難にかかったのでございます。
ある夜のことに藤吉が参りまして、洗濯物《せんたくもの》があるなら嚊《かかあ》に洗わせるから出せと申しますから、遠慮なく単衣《ひとえ》と襦袢《じゅばん》を出しました。そう致しますとそのあくる日の夕方に大工の女房が自分で洗濯物を持って参りまして、これだからお神さんを早くお持ちなさい、女房のありがた味はこれでもわかろうと私の膝の上に持って来たのを投げ出して帰えりました。この女はお俊《しゅん》と申しまして、年は二十四五でございます。長屋中でお俊はいつか噂にのぼり、またお俊の前でもお神さんはどう見ても意気だなぞと、賞《ほ》めそやす山の神があるくらいですから私の目にもこれはただの女ではないくらいのことは感づいていたのでございます。
藤吉は毎晩のように来るようになりました。それは一ツは私から尺八を習おうという熱心であったでございますが、笛とか尺八とかいうものは性質《うまれつき》と見えまして藤吉は器用な男でありながらどうしても進歩いたしません。それでも屈せずブウブウ吹いていたのでございます。
お俊も遊びに来るようになりました。初めは二人で押しかけて参りましたが後には日曜日など、藤吉のいない時は昼間でも一人で遊びに来て、一人でしゃべって帰ってゆくようになったのでございます。私も後には藤吉の家に出掛けて夜の十二時までもくだらん話をして遊ぶようになりました。お俊はしきりに私の世話を焼いて、飯まで炊いてくれることもあり、菜ができると持って来てくれる、私の役所から帰らぬうちにちゃんと晩の仕度をしてくれることもあり、それですから藤吉がある時冷かしまして、『お前はこのごろ亭主が二人できたから忙がしいなア』と言ったことがあります。けれども藤吉は決して私を疑ぐるようなことはなく、初めはただ隣りづきあいでしたのが後には、なんでも身の上のことを打ち明けて私に相談するようになりました。それですから私もそのつもりでつきあって、随分やつの力にもなってやり、時には金の用までたしてやりましたのでやつはなお私をまたない友と信じ、二日ばかり私が風邪をひいた時など一日は仕事を休んで私のそばに附いていたことさえござります。
それに長屋中、皆な私を可愛がってくれまして、おとなしい方だよい方だ、珍しい堅人《かたじん》だと褒《ほ》めてくれるのでございます。ですからお俊ばかりでなくお神さんたちが頼みもせぬ用を達《た》してくれるのでございます。ところがおかしいのはお俊がこれを焼いて、何を私がついているによけいなお世話だと、お神さんたちの目の前でいやな顔をする、それをお神さんたちはなお面白半分に私の世話を焼いたこともありました、けれども、それでもってお俊と私の仲を長屋の者が疑ぐるかというに決してそうでなく、てんで私をば木か金で作ったもののように無類の堅人だと信じていたのでございます。けれどもお俊の方はそれほどの信用はないのです。ですからお俊さんは少し怪しいが、とても物にはならぬなど、明らさまに私に向って言った山の神さえいたのでございます。
実際、お俊は怪しいと言われても仕方がありますまい。ある晩のことに私が床を延べていますと、お俊が飛んで参りまして、
『どうせ私じゃお気に入りませんよ』と言いざま布団《ふとん》を引ったくって自分でどんどん敷き『サア、旦那様お休みなさい、オー世話の焼ける亭主だ』と言いながら色気のある眼元でじっと私を見上げましたことなどは、ただの仕草ではなかったのでございます。そしてその時の私の心持を言いますと、決して長屋の者が信じていたほどの堅固なものでなかったので、木や石でない限り、やはり妙な心持がしたのでございます。
私がある時藤吉に向い、『どうもお俊さんは意気だ、まるで素人じゃアないようだ』と申しますと、藤吉にやにや笑っていましたが、『うまいところを当てられた、実はあれはさる茶屋でかなり名を売った女中であったのを親方が見つけ出し、本人の心持を聞いて見ると堅気の職人のところにゆきたいというので、それこそ幸いと私に世話してくれたのだ』と少々得意の気味でお俊の身元を打ち明けたのでございます。その時からなおさら私はお俊のそぶりを妙に感じて来ました。
けれどもまず平穏無事に日が経ちますうち、ちょうど八月の中ごろの馬鹿に熱い日の晩でございます、長屋の者はみんな外に出て涼んでいましたが私
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング