ま》を立てて落ちるのです。衣服《きもの》はびしょぬれになる、これは大変だと思う矢先に、グイグイと強く糸を引く、上げると尺にも近い山※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]の紫と紅《あか》の条《すじ》のあるのが釣れるのでございます、暴《あば》れるやつをグイと握って籠《びく》に押し込む時は、水に住む魚までがこの雨に濡れて他の時よりも一倍鮮やかで新しいように思われました。
『もう帰えろうか』と一人が言って此方をちょっと向きますが、すぐまた水面を見ます。
『帰ろうか』と一人が答えますが、これは見向きもしません、実際何を自分で言ったのかまるで夢中なのでございます。
そのうちに雷がすぐ頭の上で鳴りだして、それが山に響いて山が破裂するかと思うような凄い音がして来たので、二人は物をも言わず糸を巻いて、籠《びく》を提《さ》げるが早いかドンドン逃げだしました。途中まで来ると下男が迎えに来るのに逢いましたが、家に帰ると叔母《おば》と母とに叱《しか》られて、籠を井戸ばたに投げ出したまま、衣服を着更えすぐ物置のような二階の一室《ひとま》に入り小さくなって、源平盛衰記の古本を出して画を見たものです。
けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転《ころ》げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍《そば》で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。
私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろうと言いますので仕方なしに帰るのでございます。一度は一人残っていると強情を張りましたので、母だけ先に帰りましたが、私は日の暮れかかりに縁先に立っていますと、叔母の家は山に拠って高く築《つ》きあげてありますから山里の暮れゆくのが見下されるのです。西の空は夕日の余光《なごり》が水のように冴《さ》えて、山々は薄墨の色にぼけ、蒼《あお》い煙が谷や森の裾《すそ》に浮いています、なんだかうら悲しくなりました。寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳《ひ》く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなって、なぜ一しょに帰らなかったろう、今時分は家に着いて祖母《おばア》さんと何か話してござるだろうなど思いますと堪らなくなって叔母にこれからすぐ帰えると云いだしました。叔母は笑って取り合ってくれません、そのうちに燈火《あかり》が点《つ》く、従兄弟と挾《はさ》み将棊《しょうぎ》をやるなどするうちにいつか紛れてしまいましたが、次の日は下男に送られすぐ家に帰りました。
また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思い出しますのはその時の母の顔でございます。石に腰をおろしてほっと呼吸《いき》を吐《つ》いて言うに言われん悲しげな顔つきをします、その顔つきを見ますと私までが子供心にも悲しいような気がしまして黙ってつくねん[#「つくねん」に傍点]と母の傍《そば》に腰をかけているのでございます。そうすると母が、『お前腹がすきはせんか、腹がすいたら餅をお喰べ、出して上げようか』と言って合財嚢《がっさいぶくろ》の口を開きかけます。私が、『腹はすかない』と言えば、『そんなことを言わないで一つお喰べ、おっかさんも喰べるから』と言って無理に餅をくれます。そうされますと、私はなぜかなお悲しくなって、母の膝にしがみついて泣きたいほどに感じました。
私は今でも母が恋しくって恋しくって堪らんのでございます」
盲人は懐旧の念に堪えずや、急に言葉を止めて頭を垂れていたが、しばらくして(聴者《ききて》の誰人《たれ》なるかはすでに忘れはてたかのごとく熱心に)
「けれどもこれはあたりまえでございます、母はまるで私のために生きていましたので、一人の私をただむやみと可愛がりました。めったに叱ったこともありません、たまさか叱りましてもすぐに母の方から謝《あや》まるように私の気嫌を取りました。それで私は我儘《わがまま》な剛情者に育ちましたかと言うにそうではないので、腕白者のすることだけは一通りやりながら気が弱くて女のようなところがあったのでございます。
これが昔気質の祖母《ばば》の気に入りません、ややともすると母に向いまして、
『お前があんまり優しくするから修蔵までが気の弱い児になってしまう。お前からしても少ししっかりして男は男らしく育てんといけませんぞ』とかく言ったものです。
けれども母の性質《うまれつき》としてどうしても男は男らしくというような烈《はげ》しい育て方はできないのです。ただむやみと私が可愛いので、先から先と私の行く末を考えては、それを幸福《しあわせ》の方には取らないで、不幸せなことばかりを想い、ひとしお私がふびん[#「ふびん」に傍点]で堪らないのでございました。
ある時、母は私の行く末を心配するあまりに、善教寺という寺の傍《そば》に店を出していた怪しい売卜者《うらないしゃ》のところへ私を連れて参りました。
売卜者の顔はよく憶《おぼ》えております、丸顔の眼の深く落ちこんだ小さな老人で、顔つきは薄気味悪うございましたが母と話をするその言葉つきは大変に優しくって丁寧で、『アアさようかな、それは心配なことで、ごもっともごもっとも、よく私が卜《み》て進ぜます』という調子でございました。
老人は私の顔を天眼鏡で覗《のぞ》いて見たり、筮竹《ぜいちく》をがちゃがちゃいわして見たり、まるで人相見と八卦見《はっけみ》と一しょにやっていましたが、やがてのことに、
『イヤ御心配なさるな、この児さんは末はきっと出世なさるる、よほどよい人相だ。けれど一つの難がある、それは女難だ、一生涯女に気をつけてゆけばきっと立派なものになる』と私の頭を撫《な》でまして、『むむ、いい児だ』としげしげ私の顔を見ました。
母は大喜びに喜こびまして、家に帰えるやすぐと祖母にこのことを吹聴しましたところが祖母は笑いながら、
『男は剣難の方がまだ男らしいじゃないか、この児は色が白うて弱々しいからそれで卜者《うらないしゃ》から女難があると言われたのじゃ、けれども今から女難もあるまい、早くて十七八、遅くとも二十《はたち》ごろから気をつけるがよい』と申しました。
ところが私にはその時(十二でした)もう女難があったのでございます。
ここまでお話ししたのでございますから、これから私の女難の二つ三つを懺悔《ざんげ》いたしましょう。売卜者はうまく私の行く末を卜《うらな》い当てたのでございます。
そのころ、私の家から三丁ばかり離れて飯塚という家がございましたがそこの娘におさよと申しまして十五ばかりの背《せい》のすらりとして可愛らしい児がいました。
その児が途《みち》で私を見るときっとうちに遊びに来いと言うのです。私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還《かえ》さないで膝の上に抱き上げたり、頸《くび》にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻《か》き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬《ほお》を無理に私の顔に押しつけたり、いろいろな真似をするのでございます。
そうすると私もそれが嬉れしいような気がして、その後はたびたび遊びに出かけて、おさよの顔を見ないと物足りないようになりました。
そのうち、売卜者から女難のことを言われ、母からは女難ということの講釈を聞かされましたので、子供心にも、もしか今のが女難ではあるまいかと、ひどくこわくなりましたが、母の前では顔にも出さず、ないない心を痛めていながらも時々おさよのもとに遊びに参りましたのでございます。
今から思いますと、やはりそのころ私はおさよを慕うていたに違いないのです、おさよが私を抱いて赤児《あかんぼ》扱いにするのを私は表面《うわべ》で嫌がりながら内々はうれしく思い、その温たかな柔らかい肌《はだ》で押しつけられた時の心持は今でも忘れないのでございます。女難といえばその時もう女難に罹《かか》っていたといってもよろしゅうございましょう。
母は毎日のように、女はこわいものだという講釈をして聴かし、いろいろと昔の人のことや、城下の若い者の身の上などを例えに引いて話すのでございます。安珍《あんちん》清姫《きよひめ》のことまで例えに引きました。外面如菩薩《げめんにょぼさつ》内心|如夜叉《にょやしゃ》などいう文句は耳にたこのできるほど聞かされまして、なんでも若い女と見たら鬼か蛇《じゃ》のように思うがよい、親切らしいことを女が言うのは皆な欺《だ》ますので、うかとその口に乗ろうものならすぐ大難に罹りますぞよというのが母の口癖でありましたのでございます。
私は母を信仰していましたから母の言うことは少しも疑いませんでした。それですからおさよも事によったら内心如夜叉ではないかとこわがりながらも、自分で言いわけをこしらえて、おさよさんはまだ子供だし自分もまだ子供だからそんなこわいことはない、おさよさんが自分を可愛がるのは真実に可愛がるので決して欺《だま》すのじゃあないとこういう風に考えていたのでございます。
ところがある日、日の暮に飯塚の家の前を通るとおさよが飛び出して来て、私を無理に引っ張り込みました。そしてなぜこの四五日遊びに来なかったと聞きますから、風邪を引いたといいますと、それは大変だ、もう癒《なお》ったかと、私の顔を覗きこんで、まだ顔色がよくない、大事になさいよ修さんが病気になったら私は死んでしまうと言ってじっと私の眼を見るのでございます。私は気が弱うございますからこういわれますとなんだかうれしいやら悲しいやらツイわれ知らず涙ぐみました、それを見ておさよは私を抱きかかえましたが見るとおさよも眼に一杯涙をもっているのでございます。そして今夜は泊れおっかさんの代りに私が抱いて寝てあげるからといいます。おっかさんに叱られるからいやだと申しますと、おっかさんには私が今|往《い》って謝《ことわ》って来るからかまわないといいます。その時私が、もし母上に言ったらなお叱られる、おさよさんのとこへ遊びに来るのも内証なんだからと小声で言いましたら、いきなり私を突き離して、なぜ内証で来るの、修さんと私と遊んじゃア悪いの、悪いのならもう来なくってもようござんすよと、こわい顔をして私を睨《にら》みつけたのでございます。私は慄《ふ》るい上って縁がわから飛び下り、一目散に飯塚の家から駈け出しました。
それからというものは決して飯塚に参りません、おさよに途で逢っても逃げ出しました。おさよは私の逃げ出すのを見ていつもただ笑っていましたから、私はなおおさよが自分を欺しかけていたのだと信じたものでございます。
四
次の女難は私の十九の時でございます。この時はもう祖母《ばば》も母も死んでしまい、私は叔母の家の厄介《やっかい》になりながら、村の小学校に出してもらって月五円の給料を受けていました。祖母の亡くなったのは十五の春、母はその秋に亡くなりましたから私は急に孤児《みなしご》になってしまい、ついに叔母の家に引き取られたのでございます。十八の年まで淋しい山里にいて学問という学問は何にもしないでただ城下の中学校に寄宿している従兄弟から送って寄こす少年雑誌見たようなものを読み、その他は叔母の家に昔から在った源平盛衰記、太平記、漢楚軍談《かんそぐんだん》、忠義水滸伝《ちゅうぎすいこでん》のようなものばかり読んだのでございます。それですから小学校の教師さえも全くは覚束ないのですけれど、叔母の家が村の旧家で、その威光で無理に雇ってもらったという次第でございました、母の病気の時、母はくれぐれも女に気をつけろと、死ぬる間際《まぎわ》まで女難を戒しめ、どうか早く立身してくれ、草葉の蔭から祈っているぞと言って死にました。けれどもどうして立身するか、それはまるで母にも見
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