言いますと、お俊は黙って起って出てゆきましたから、私はすぐ蚊帳《かや》の内に入ってしまったのでございます。ところが間もなくお俊は戻《もど》って参りまして、
『よく寝ているからそとから戸締りをして来ました』と澄ましているのです。
『そしてお前さんどうするのだ』と私は蚊帳の内から問いました。
『私はこうして朝まで寝ないでいてやるのサ』
『そんなことができるものか、帰って寝たがよかろう』と申しますとお俊はじれったそうに『うっちゃっておいて下さいよ、酔っぱらいだから夜中にまたどんなことをするかわかるもんじゃアない、私ゃこわいワ、』と平気で煙草を吸っているのです。私も言いようがないから黙っていますと、お俊もいつものおしゃべりに似ず黙っているのでございます、蚊帳の中から透《すか》して見ると、薄暗い洋燈《ランプ》の光が房々《ふさふさ》とした髪から横顔にかけてぽーッとしています、それに蒸し暑いのでダラリとした様子がいつにないなまめかしいように私は思ったのでございます。
そのうち、かれこれ二十分も経ちましたろうか。お俊は折り折り団扇《うちわ》で蚊を追っていましたが『オオひどい蚊だ』と急に起ち上がりまして、蚊帳の傍《そば》に来て、『あなたもう寝たの?』と聞きました。
『もう寝かけているところだ』と私はなぜか寝ぼけ声を使いました。
『ちょっと入らして頂戴な、蚊で堪らないから』と言いさま、やっと一人寝の蚊帳の中に入って来たのでございます。
朝早くお俊は帰ってゆきましたが、どういう風に藤吉の気嫌を取ったものか、それとも酔いが醒《さ》めて藤吉が逆戻りしましたのか、おとなしく仕事に出て参りました。出際《でぎわ》に上り口から頭を出して『お早よう』と言いさま、妙に笑って頭を掻《か》いて見せまして『いずれおわびは帰ってから』と、言い捨てて出て参りました。その後姿を見送って『アア悪いことをした』と私はギックリ胸に来ましたけれどもう追っつきません。それからというものは、お俊の亭主はほんとうに二人になったのでございます。
それから一月も経たぬうちに藤吉はまた親方に何か言われて、プンプン怒って帰って参りましたが、今度は少しも酔っていないのです。お俊と別れて自分はしばらく横浜へ稼《かせ》ぎに行くと言った様子はひどく覚悟をしたらしいので、私も浜へゆくことは強いて止めません、お俊と別れるには及ぶまい、しばらく私が預かるから半年も稼いだら帰って来てまた一しょになるがよかろうと申しますと、藤吉は涙を流してよろこびまして、万事よろしく頼むと家を畳んでお俊を私の宅に同居させ、横浜へ出かけてしまいました。
もうこうなれば澄ましたもので、お俊と私はすっかり夫婦気取りで暮していたのでございます。
そうすると一月ほどたちまして私は眼病にかかったのでございます。たいしたこともあるまいと初めは医者にもかからず、役所にはつとめて通っていましたが、だんだんに悪くなりましてしまいには役所を休むようになりました。医者に見せますと容易ならぬ眼病だと言われて、それから急にできるだけの療治にかかりましたが治る様子も見えないのでございます。
お俊はなかなか気をつけて看護してくれました。藤吉からは何の消息《たより》もありません。私は藤吉のことを思いますと、ああ悪いことをしたと、つくづくわが身の罪を思うのでございますが、さればとてお俊を諭《さと》して藤吉の後を逐《お》わすことをいたすほどの決心は出ませんので、ただ悪い悪いと思いながらお俊の情を受けておりました。
そのうちだんだん眼が悪くなる一方で役所は一月以上も休んでいるし、私は気が気でならず、もし盲目《めくら》になったらという一念が起るたびに、悶《もだ》え苦しみました。
ここに怪しいことのございますのは、お俊の様子がひどく変ったことでございます、なんとなく私を看護するそぶりが前のようでなく、つまらぬことに疳癪《かんしゃく》を起して私につらく当るのでございます。そして折り折りは半日もいずれにか出あるいて帰らぬこともあるのです。私は口に出してこそ申しませんが、腹の中は面白くなくって堪りません。ところがある日のことでございました、『御免なさい』と太い声で尋ねて来た者があります。
『いらっしゃい』とお俊は起ってゆきましたが、しばらく何かその男とこそこそ話をしていましたが、やがて私の枕元に参りまして、『頭領が見えました、何かあなたにお話ししたいことがあるそうです』
なんの頭領だろうと思っていますうちに、その男はずかずか私の枕元に参りまして、
『お初《はつ》にお目にかかります、私ことは大工|助次郎《すけじろう》と申しますもので、藤吉初めお俊がこれまでいろいろお世話様になりましたにつきましては、お礼の申し上げようもございません、別してお俊が厚いお情をこうむりま
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