た崕の下に四角の井戸の浅いのがありまして、いつも清水を湛えていました。総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬《しびれぐすり》を思い出し、武松《ぶしょう》がやられました十字坡《じゅうじは》などを想い出したくらいです。
それですが、武から妙なことを言われて大いに不思議に思っている上に武の家に連れてゆかれますのですから、坂を上りながらも内々薄気味が悪くなって来たのです。途々、武に何を見せるのだと聞きましても、武はどうしても言わないばかりか、しめたという顔つきをして根性の悪い笑い方をするのでございました。
日はすっかり暮れて、十日ごろの月が鮮やかに映《さ》していましたが、坂の左右は樹が繁《しげ》っていますから十分光が届かないのでございます。上りは二丁ほどしかありません、すぐ武の家の前に出ました。家の前は広くなって樹の影がないので月影はっきりと地に印していました。
障子に燈火《あかり》がぼんやり映って、家の内はひっそりとしています。武は黙って内庭に入りました。私は足が進みません、外でためらっていますと、
『お入りなされ!』と暗いところで武が言いました。
その声は低いけれども底力があって、なんだか私を命令するようでした。
『ここで見てやるから持って来い』と私は外から言いました。
『お入りなされと言うに!』と今度はなお強く言いましたので私も仕方がないから、のっそり内庭に入りました。私の入ったのを見て、武は上にあがり茶の間の次ぎに入りました。しばらく出て参りません、その様子が内の誰かとこそこそ話をしているようでした。間もなく出て参りまして、今度は優しく、
『お上りなされませ、汚ないけえども』といいますから少しは安心して上りました。そして武の案内で奥の一間に入りますと、ここは案外小奇麗になっていまして、行燈《あんどん》の火が小さくして部屋の隅に置いてありました。しかしまず私の目につきましたのはそこに一人の娘が坐っていることでございます。私が入ると娘は急に起とうとしてまた居住いを直して顔を横に向けました。私は変ですから坐ることもできません、すると武が出し抜けに、
『見てもらいたいと言うたのはこれでございます』というや女は突っ伏してしまいました。私はなんと言ってよいか、文句が出ません、あっけに取られて武の顔を見ると、武も少し顔を赤らめて言いにくそうにしていましたが、
『まアここへ坐って下さりませ、私はちょっと出て来ますから』と言い捨てて行こうとしますから、
『なんだ、なんだ、私はいやだ、一人残るのは』と思わず言いますと、
『それでは坐って下さらんのか』と言ってこわい顔をして私を睨みました。私が帰るといえばすぐにでも蹶飛《けと》ばしそうな剣幕ですから私も仕方なしにそこに坐って黙っていますと、娘は泣いておるのです。嗚咽《むせ》びかえっているのです、それを見た武の顔はほんとうに例えようがありません、額に青筋を立てて歯を喰いしばるかと思うと、泣き出しそうな顔をして眼をまじまじさせます。何か言い出しそうにしては口のあたりを手の甲で摩《こす》るのでございます。
『一体どうしたのだ』と私も事の様子があんまり妙なので問いかけました。しますると武がどもりながらこういうのでございます。妹が是非あなたに遇わしてくれと言って聞かない、いろいろ言い聞かしたがどうしても承知しない、それだからあなたを欺《だま》して連れて来たのだ、どうか不憫《ふびん》な女だと思って可愛がってやってくれ、私から手を突いて頼むから、とまずこういう次第なのです。馬鹿馬鹿しい話だとお笑いもございましょうが、全くそうでしたので、まず私が村の色男になったのでございます。
そのころ私は女難の戒めをまるで忘れたのではありませんが、何を申すにも山里のことですから、若い者が二三人集まればすぐ娘の評判でございます。小学校の同僚もなんぞと言えばどこの娘《こ》は別嬪《べっぴん》だとか、あの娘にはもう色があるとか、そんな噂《うわさ》をするのは平気で、全くそれが一ツの楽しみなのですから、私もいつかその風に染みまして村の娘にからかって見たい気も時々起したのでございます。さすが母の戒めがありますから、うかとは手も出しませんでしたが、決して心からその実、女を恐れていたのではなく、もしよい機会《おり》があったらきっと色の一ツぐらいできるはずになっていたのでございます。
ところで武の妹はお幸《こう》と申しまして若い者のうちで大評判な可愛い娘でございまして年はそのころ十七でした。私も始終顔を見知っていましたが言葉を交《か》わしたことはなかったのです。先方《むこう》では私が叔母の家の者であり、学校の先生ということで遇うたびに礼をして行き過ぎるのでございます、田舎の娘に
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