#「五月十九日」に傍点(白丸)]
昨夜は六兵衛が来て遅くまで飲んだ。六兵衛の言い草が面白いではないか
「お露を妻《かか》に持なせえ」
「持っても可いなあ」
「持ても可《え》えなんチュウことは言わさん、あれほど可愛《かわ》いがっておって未だ文句が有るのか」
「全くあの女は可愛いよ、何故こう可愛いだろう、ハハハハ……」
「先方《むこう》でもそねえに言うてら、どうでこう先生が可愛いのか解らんチュウて」
「さようさ、私《わし》みたような男の何処《どこ》が可いのかお露は無暗と可愛いがってくれるが妙だ。これは私《わし》にも解らんよ」
「そうで無えだ、先生のような人は誰でも可愛《かあい》がりますぞ。お露が可愛がるのは無理が無えだ」
「ハハハハ何故や、何故や」
「何故チュウて問われると困まるが、一口に言うと先生は苦労人だ。それで居て面白ろいところがあって優しいところがあるだ。先生とこう飲んでいると私《わし》でも四十年《しじゅうねん》も前の情話《いろばなし》でも為てみたくなる、先生なら黙って聴《き》いてくれそうに思われるだ。島中《しまじゅう》先生を好《すか》んものは有りましねえで。お露や私《わし》を初め」
自分はどうしてこう老人の気に入るだろう。老人といえば升屋の老人は今頃誰を対手《あいて》に碁を打っていることやら。
六兵衛は又こう言った
「先生は一度|妻《かか》を持たことが有るに違いなかろう」
「どうして知れる」
「どうしてチュウて、それは老人《としより》の眼には知れる」
「全く有ったよ、然し余程|以前《まえ》に死で了った」
「ハアそれは気の毒なことをなされました」
「けれどもね六兵衛さん、死だ妻はお露ほど可愛《かあい》くなかったよ、何でも無《なか》ったよ」
「それは不実だ。先生もなかなか浮気だの、新らしいのが可《え》えだ」と言って老人は笑った。
自分も唯《た》だ笑って答えなかった。不実か浮気か、そんなことは知らない。お露は可愛《かあい》い。お政は気の毒。
酒の上の管《くだ》ではないが、夫婦というものは大して難有《ありがた》いものでは無い。別してお政なんぞ、あれは升屋の老人がくれたので、くれたから貰《もら》ったので、貰ったから子が出来たのだ。
母もそうだ、自分を生んだから自分の母だ、母だから自分を育てたのだ。そこで親子の情があれば真実《ほんと》の親子であるが、無ければ他人だ。百円盗んで置きながら親子の縁を切るなど文句が面白ろい。初から他人なのだ。
自分は小供の時から母に馴染《なじ》まなんだ。母も自分には極《きわめ》て情が薄かった。
明日は日曜。同勢四五人舟で押出す約束であるが、お露も連れこみたいものだ。
大河今蔵の日記は以上にて終りぬ。彼は翌日誤って舟より落ち遂に水死せるなり。酔に任せ起《た》って躍《おど》りいたるに突然水の面《おも》を見入りつ、お政々々と連呼してそのまま顛落《てんらく》せるなりという。
記者去年帰省して旧友の小学校教員に会う、この日記は彼の手に秘蔵されいたるなり。馬島《うましま》に哀れなる少女あり大河の死後四月にして児を生む、これ大河が片身、少女はお露なりとぞ。
猶《な》お友の語るところに依れば、お露は美人ならねどもその眼に人を動かす力あふれ、小柄《こづくり》なれども強健なる体格を具《そな》え、島の若者多くは心ひそかにこれを得んものと互に争いいたるを、一度《ひとたび》大河に少女の心|移《うつる》や、皆大河のためにこれを祝して敢《あえ》て嫉《ねたむ》もの無かりしという。
お露は児のために生き、児は島人《しまびと》の何人《なんぴと》にも抱《いだ》かれ、大河はその望むところを達して島の奥、森蔭暗き墓場に眠るを得たり。
記者思うに不幸なる大河の日記に依りて大河の総《すべて》を知ること能《あた》わず、何となれば日記は則《すなわ》ち大河自身が書き、しかしてその日記には彼が馬島に於ける生活を多く誌《しる》さざればなり。故《ゆえ》に余輩は彼を知るに於て、彼の日記を通して彼の過去を知るは勿論《もちろん》、馬島に於ける彼が日常をも推測せざる可《べか》らず。
記者は彼を指して不幸なる男よというのみ、その他を言うに忍びず、彼もまた自己を憐《あわ》れみて、ややもすれば曰《いわ》く、ああ不幸なる男よと。
酒中日記とは大河自から題したるなり。題して酒中日記という既に悲惨《ひさん》なり、況《いわ》んや実際彼の筆を採る必ず酔後に於てせるをや。この日記を読むに当《あたっ》て特に記憶すべきは実に又この事実なり。
お政は児を負《お》うて彼に先《さきだ》ち、お露は彼に残されて児を負う。何《いず》れか不幸、何《いずれ》か悲惨。
底本:「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」新潮文庫、新潮社
1970(昭和45)年5月30日発行
入力:八木正三
校正:LUNA CAT
1998年5月11日公開
2000年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング