自分は懐《ふところ》に片手を入れて一件を握っていたが未《ま》だ夢の醒《さ》めきらぬ心地がして茫然《ぼうぜん》としている。
「御飯は?」
「食って来た」
「母上《おっか》さんの処で?」
「あア」
「大変お顔の色が悪う御座いますよ」と妻は自分の顔を見つめて言う。
「余り心配したせいだろう」
「直ぐお寝《やす》みなさいな」
「イヤ帳簿の調査《しらべ》もあるからお前先へ寝ておくれ」と言って自分は八畳の間に入り机に向った。然し妻は容易に寝そうもないので、
「早くお寝みというに」
自分はこれまで、これほど角《かど》のある言葉すら妻《さい》に向って発したことはないのである。妻は不審そうに自分の方を見ているようであったが、その中《うち》床に就てしまった。自分は一度|殊更《ことさら》に火鉢の傍に行って烟草《たばこ》を吸って、間《あい》の襖《ふすま》を閉《し》めきって、漸《ようや》く秘密の左右を得た。
懐からそっと[#「そっと」に傍点]盗すむようにして紙幣《さつ》の束を出したが、その様子は母が机の抽斗《ひきだし》から、紙幣《さつ》の紙包を出したのと同じであったろう。
一円紙幣で百枚! 全然《まるで》注文したよう。これを数える手はふるえ、数え終って自分は洋燈《ランプ》の火を熟《じっ》と見つめた。直ぐこれを明日銀行に預けて帳簿の表《おもて》を飾ろうと決定《きめ》たのである。
又盗すまれてはと、箪笥に納《しも》うて錠を卸ろすや、今度は提革包《さげかばん》の始末。これは妻の寝静まった後ならではと一先《ひとまず》素知らぬ顔で床に入った。
床に入って眼を閉じている時、この時には多少《いくら》か良心の眼は醒《さ》めそうなものだが、実際はそうでなかった。魔が自分に投げ与えた一の目的の為めに、良心ならぬ猛烈の意志は冷やかに働らいて、一に妻の鼻息を覗《う》かがっている。こうして二時間|経《た》ち、十二時が打つや、蒼《あお》い顔のお政は死人のように横たわっているのを見届けて、前夜は盗賊を疑ごうて床を脱け出た自分は、今度は自身盗賊のように前夜よりも更に静に、更に巧に、寝間を出て、縁《えんがわ》の戸を一分又た一分に開け、跣足《はだし》で外面《そと》に首尾能く出た。
星は冴《さ》えに冴え、風は死し、秋の夜の静けさ、虫は鳴きしきっている。不思議なるは自分が、この時かかる目的の為に外面《そと》に出《いで》
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