いて呼んだ。「ハイ」とお光は下《おり》て来て自分を見て、
「オヤ兄様」と言ったが笑いもせず、唯だ意外という顔付き、その風《ふう》は赤いものずくめ、どう見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母の可怕い顔と自分の真面目《まじめ》な顔とを見比べていたが、
「それからね母上《おっか》さん、お鮨《すし》を取って下さいって」
「そう、幾価《いくら》ばかり?」
「幾価だか。可い加減で可いでしょう。それから母上さんにもお入《いで》なさいって」
「あア」と母は言って妙な眼つきでお光の顔を見たが、お光はそのまま自分の方は見向もしないで二階へ上って了《し》まった。自分は唯だ坐わったきり、母の何とか言いだすのを待っていた。
「何しに来たの」と母は突慳貪《つっけんどん》に一言《ひとこと》。
「先刻は失礼しました」と自分は出来るだけ気を落着けて左《さ》あらぬ体《てい》に言った。
「いいえどうしまして。色々心配をかけて済なかったね。帰る時お政さんに言って置いたことがあるが聞いておくれだったかね?」と何処《どこ》までも冷やかに、憎々しげに言いながら起上《たちあ》がって「私はお客様《きゃくさん》の用で出て来るが、用があるなら待っていておくれ」と台所口から出て去《い》って了った。
 自分は腕組みして熟《じ》っとしていたが、我母ながらこれ実に悪婆《あくば》であるとつくづく情なく、ああまで済ましているところを見ると、言ったところで、無益《むだ》だと思うと寧《いっ》そのこと公けの沙汰《さた》にして終《しま》おうかとの気も起る。然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので、仮令《たとい》公金であれ、子の情として訴たえる理由《わけ》にはどうしてもゆかない。訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃《ひそ》かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面《ちょうづら》で胡魔化《ごまか》すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後《あと》で発覚《ばれ》る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦《ふる》えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る?
 思えば思うほど自分はどうして可いか解らなくなって来た。これは如何《いか》なことでも母から取返えす外はと、思い定めていると母は外から帰って来て、無言で火鉢《ひばち》の向《むこう》に坐ったが、
「どうだね、聞いてお
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