年前の大河では御座らぬ。
ああ今は気楽である。この島や島人《しまびと》はすっかり自分の気に入って了《しま》った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気《のんき》に過さしてくれるかと思うと、正《まさ》にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかも知れない。「ああ気の弱い男!」何処《どこ》に自分が変っている、やはりこれが自分の本音《ほんね》だろう。
可愛い可愛いお露《つゆ》が遊びに来たから、今日はこれで筆を投げる。
五月四日[#「五月四日」に傍点(白丸)]
自分が升屋の老人から百円受取って机の抽斗《ひきだし》に納《しま》ったのは忘れもせぬ十月二十五日。事の初《はじまり》がこの日で、その後自分はこの日に逢《あ》うごとに頸《くび》を縮めて眼をつぶる。なるべくこの日の事を思い出さないようにしていたが、今では平気なもの。
一件がありありと眼の先に浮んで来る。
あの頃の自分は真面目《まじめ》なもので、酒は飲めても飲まぬように、謹厳正直《きんげんせいちょく》、いやはや四角張《しかくばっ》た男であった。
老人連、全然《すっかり》惚《ほ》れ込んでしまった。一《いつ》にも大河、二にも大河。公立|八雲《やくも》小学校の事は大河でなければ竹箒《たけぼうき》一本買うことも決定《きめ》るわけにゆかぬ次第。校長になってから二年目に升屋の老人、遂に女房の世話まで焼いて、お政を自分の妻にした。子が出来た。お政も子供も病身、健康なは自分ばかり。それでも一家《いっけ》無事に平和に、これぞという面白いこともない代り、又これぞという心配もなく日を送っていた。
ところが日清《にっしん》戦争、連戦連勝、軍隊万歳、軍人でなければ夜も日も明けぬお目出度《めでた》いこととなって、そして自分の母と妹《いもと》とが堕落した。
母と妹《いもと》とは自分達夫婦と同棲《どうせい》するのが窮屈で、赤坂区新町に下宿屋を開業。それも表向《おもてむき》ではなく、例の素人《しろうと》下宿。いやに気位を高くして、家が広いから、それにどうせ遊んでいる身体《からだ》、若いものを世話してやるだけのこと、もっとも性の知れぬお方は御免|被《こうむ》るとの触込《ふれこ》み。
自体拙者は気に入らないので、頻《しき》りと止めてみたが、もと
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