二歳《ふたつ》になる助《たすく》がその顔を小枕《こまくら》に押着けて愛らしい手を母の腮《あご》の下に遠慮なく突込んでいる。お政の顔色の悪さ。さなきだに蒼《あお》ざめて血色|悪《あ》しき顔の夜目には死人《しびと》かと怪しまれるばかり。剰《あまつさ》え髪は乱れて頬《ほお》にかかり、頬の肉やや落ちて、身体《からだ》の健《すこや》かならぬと心に苦労多きとを示している。自分は音を立てぬようにその枕元を歩いて、長火鉢《ながひばち》の上なる豆洋燈を取上げた。
 暫時《しばらく》聴耳《ききみみ》を聳《たて》て何を聞くともなく突立っていたのは、猶《な》お八畳の間を見分する必要が有るかと疑がっていたので。しかし確に箪笥《たんす》を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現《うつつ》かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変《かわり》はない。縁端《えんがわ》から、台所に出て真闇の中をそっと覗《のぞ》くと、臭気《におい》のある冷たい空気が気味悪く顔を掠《かす》めた。敷居に立って豆洋燈を高くかかげて真闇の隅々《すみずみ》を熟《じっ》と見ていたが、竈《かまど》の横にかくれて黒い風呂敷包が半分出ているのに目が着いた。不審に思い、中を開けて見ると現われたのが一筋の女帯。
 驚くまいことか、これがお政が外出《そとゆき》の唯《たっ》た一本の帯、升屋の老人が特に祝わってくれた品である。何故《なぜ》これが此所《ここ》に隠してあるのだろう。
 自分の寝静まるのを待って、お政はひそかに箪笥からこの帯を引出し、明朝《あす》早くこれを質屋に持込んで母への金を作る積《つもり》と思い当った時、自分は我知らず涙が頬を流れるのを拭《ふ》き得なかった。
 自分はそのまま帯を風呂敷に包んで元の所に置き、寝間に還《かえ》って長火鉢の前に坐わり烟草《たばこ》を吹かしながら物思に沈んだ。自分は果してあの母の実子だろうかというような怪しい惨《いた》ましい考が起って来る。現に自分の気性と母及び妹《いもと》の気象とは全然《まるで》異《ちが》っている。然し父には十の年に別れたのであるから、父の気象に自分が似て生れたということも自分には解らない。かすかに覚えているところでは父は柔和《やさし》い方《かた》で、荒々しく母や自分などを叱《しか》ったことはなかった。母に叱られて柱に縛《しば》りつけられたのを父が解てくれたことを
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