座敷を取り片|付《づ》けるので母屋《おもや》の方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火《ひ》も点《つ》けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚《よ》りかかりながら、茫然《ぼんやり》外面《そと》をながめている。
『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去《い》ってしまった、それから五分も経《た》ったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠然《やおら》立って着衣《きもの》の前を丁寧に合わして、床《とこ》に放棄《ほう》ってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯子段《はしごだん》を下《お》りた。
 生垣《いけがき》を回ると突然《だしぬけ》に出っくわしたのがお梅である。お梅はきゃんな声で
『知らないよ。いいジャアないかあたしがだれのうわさをしようがお前さんの関《かま》った事ジャアないよ、ねエ先生!』
 時田は驚いて木《こ》の下闇《したやみ》を見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。
『だれ。』時田は訊《たず》ねた。
『源公の野郎《やろう》、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?』お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。
『あの幸ちゃんが来たら散歩に行ったって、そしてすぐ帰るからッて言っておくれ、』と時田は門を出た。お梅は後《あと》について来て、
『すぐお帰んなさいナもう梅竜《ばいりゅう》が来ましたから。あらお月さま!』お梅は立ち止まった。時田は橋を渡って野の方へと行ってしまった。
 二時間も経《た》ったろうか、時田の帰って来たのは。月影にすかして見ると橋の上に立っているのはお梅である。
『先生どこを歩いていました今まで、幸ちゃんがさっきから待っていますよ。』
『梅ちゃんここで何してたの。』
『先生を待っていました、幸ちゃんの用ッて何でしょう。』
『何だか知らない。何だってよいジャあないか。』
『だって何だか沈鬱《ふさ》いでいるようだから……もしかと思って。』
『ああ少し寒くなって来た。』
 二人《ふたり》は連れだって中二階の前まで来たが、母屋《おもや》では浪花節《なにわぶし》の二切《ふたき》りめで、大夫《たゆう》の声がするばかり、みんな耳を澄ましていると見えて粛然《しん》としている。
『幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、』と時田は庭の耳門《くぐり》へ入《はい》った、お梅はばたばたと母屋《おもや》の方へ駆《か》け出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。
『帰って?』幸吉は低い声で言った。
『今帰ってよ、用が済んだらまたお寄んなさいナ。』お梅の声もささやくよう。
『ありがとう。』幸吉は急いで中二階の方へ行った、しかし頭を垂《た》れたまま。お梅は座敷の隅《すみ》の方の薄暗い所に蹲居《つくなん》で浪花節を聞いていたが、みんなが笑う時でも笑顔《えがお》一つしなかった。二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙草《たばこ》を吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。
『お梅。』母親《おふくろ》がきょろきょろと見回すと、
『なに。』お梅は大きな声で返事をした。
『どこにいたのさっきから。』
『ここで聴《き》いていたのよ、そして頭が痛くって……』と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。
『奥へ行って、寝《やす》みな、寝てたッて聞こえるよ。』母親《おふくろ》は心配そうに言う。それでもお梅は返事をしないでそのまま蹲居《つくなん》でいた。そのうち三切《みき》りめが初まるとお梅はしばらく聴いていたが、そッと立って土間へ下りると母親《おふくろ》が見つけて、低い声で、
『奥でお寝《やす》みな。』半ばしかるように言った。お梅は泣き出しそうな顔をして頭を振って外面《そと》へ出た。月は冴《さ》えに冴え、まるで秋かとも思われるよう。庭木の影がはっきりと地に印《いん》している。足を爪立《つまだ》てるようにして中二階の前の生垣《いけがき》のそばまで来て、垣根|越《ご》しに上を見あげた。二階はしんとしている。この時|母屋《おもや》でドッと笑い声がした。お梅はいまいましそうに舌うちをして、ほんとにいつまでやってるんだろうとつぶやきながら道へ出た。橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干に倚《よ》っかかッて空を仰いでいた。
『オヤお一人?』
『あア。』気のない返事。
『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干に倚《よ》って時田の顔をじっと見ている。
『今帰ったよ、』と大あくびをして『梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。』
『およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くな
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