でも宜《よろ》しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜《よろ》しい。少女《むすめ》が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「朝《あした》に道を聞かば夕《ゆうべ》に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶《かな》わん位なら今から百年生きていても何の益《やく》にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「全世界の人悉くこの願を有《もっ》ていないでも宜しい、僕|独《ひと》りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関《かま》いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾《なんじ》の妻を与えよ我これを姦《かん》せん爾の子を与えよ我これを喰《くら》わん然《しか》らば我は爾に爾の願を叶《かな》わしめんと言えば僕は雀躍《じゃくやく》して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がその髯《ひげ》を力任かせに引《ひい》て叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日《こんにち》のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤《ほうたいこう》みたような人間をつきまぜて一《ひとつ》鋼鉄のような政府を形《つく》り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督《クリスト》や釈迦《しゃか》や孔子《こうし》のような人になりたい、真実《ほんと》にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則《すなわ》ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴《いただ》いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪《たま》らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵《こうじん》三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だと
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