前は最も見物人が集《たか》っている。二枚の大画は言わずとも志村の作と自分の作。
 一見自分は先ず荒胆《あらぎも》を抜かれてしまった。志村の画題はコロンブスの肖像ならんとは! しかもチョークで書いてある。元来学校では鉛筆画ばかりで、チョーク画は教えない。自分もチョークで画くなど思いもつかんことであるから、画の善悪《よしあし》はともかく、先ずこの一事で自分は驚いてしまった。その上ならず、馬の頭と髭髯《しぜん》面《めん》を被《おお》う堂々たるコロンブスの肖像とは、一見まるで比べ者にならんのである。かつ鉛筆の色はどんなに巧みに書いても到底チョークの色には及ばない。画題といい色彩といい、自分のは要するに少年が書いた画、志村のは本物である。技術の巧拙は問う処でない、掲げて以て衆人の展覧に供すべき製作としては、いかに我慢強い自分も自分の方が佳《い》いとは言えなかった。さなきだに志村崇拝の連中は、これを見て歓呼している。「馬も佳いがコロンブスは如何《どう》だ!」などいう声があっちでもこっちでもする。
 自分は学校の門を走り出た。そして家《うち》には帰らず、直ぐ田甫《たんぼ》へ出た。止めようと思うても涙が止まらない。口惜《くやし》いやら情けないやら、前後夢中で川の岸まで走って、川原《かわら》の草の中に打倒《ぶったお》れてしまった。
 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処《そこ》らの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。
 こう暴《あば》れているうちにも自分は、彼奴《きゃつ》何時《いつ》の間《ま》にチョーク画を習ったろう、何人《だれ》が彼奴に教えたろうとそればかり思い続けた。
 泣いたのと暴れたので幾干《いくら》か胸がすくと共に、次第に疲れて来たので、いつか其処に臥《ね》てしまい、自分は蒼々《そうそう》たる大空を見上げていると、川瀬の音が淙々《そうそう》として聞える。若草を薙《な》いで来る風が、得ならぬ春の香《か》を送って面《かお》を掠《かす》める。佳《い》い心持になって、自分は暫時《しばら》くじっとしていたが、突然、そうだ自分もチョークで画いて見よう、そうだという一念に打たれたので、そのまま飛び起き急いで宅《うち》に帰えり、父の許《ゆるし》を得て、直ぐチョークを買い整え画板《がばん》を提《ひっさ》げ直ぐまた外に飛び出した。
 この時まで自分はチョークを持ったことがない。どういう風に書くものやら全然《まるで》不案内であったがチョークで書いた画を見たことは度々《たびたび》あり、ただこれまで自分で書かないのは到底まだ自分どもの力に及ばぬものとあきらめていたからなので、志村があの位い書けるなら自分も幾干《いくら》か出来るだろうと思ったのである。
 再び先の川辺《かわばた》へ出た。そして先ず自分の思いついた画題は水車《みずぐるま》、この水車はその以前鉛筆で書いたことがあるので、チョークの手始めに今一度これを写生してやろうと、堤を辿《たど》って上流の方へと、足を向けた。
 水車は川向《かわむこう》にあってその古めかしい処、木立《こだち》の繁《しげ》みに半ば被《おお》われている案排《あんばい》、蔦葛《つたかずら》が這《は》い纏《まと》うている具合、少年心《こどもごころ》にも面白い画題と心得ていたのである。これを対岸から写すので、自分は堤を下《お》りて川原の草原《くさはら》に出ると、今まで川柳の蔭《かげ》で見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻《しき》りに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四、五十|間《けん》隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心になっているので自分の近《ちかづ》いたのに気もつかぬらしかった。
 おやおや、彼奴《きゃつ》が来ている、どうして彼奴は自分の先へ先へと廻《ま》わるだろう、忌《い》ま忌《い》ましい奴だと大《おおい》に癪《しゃく》に触《さわ》ったが、さりとて引返えすのはなお慊《いや》だし、如何《どう》してくれようと、そのまま突立《つった》って志村の方を見ていた。
 彼は熱心に書いている。草の上に腰から上が出て、その立てた膝《ひざ》に画板が寄掛《よせか》けてある、そして川柳の影が後《うしろ》から彼の全身を被い、ただその白い顔の辺《あたり》から肩先へかけて楊《やなぎ》を洩《も》れた薄い光が穏かに落ちている。これは面白ろい、彼奴《きゃつ》を写してやろうと、自分はそのまま其処《そこ》に腰を下して、志村その人の写生に取りかかった。それでも感心なことには、画板に向うと最早志村もいまいましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪《と》られてしまった。
 彼は頭《かしら》を上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬《ほお》に浮べていた。彼が微笑するごとに、自分
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