たことがない。どういう風に書くものやら全然《まるで》不案内であったがチョークで書いた画を見たことは度々《たびたび》あり、ただこれまで自分で書かないのは到底まだ自分どもの力に及ばぬものとあきらめていたからなので、志村があの位い書けるなら自分も幾干《いくら》か出来るだろうと思ったのである。
再び先の川辺《かわばた》へ出た。そして先ず自分の思いついた画題は水車《みずぐるま》、この水車はその以前鉛筆で書いたことがあるので、チョークの手始めに今一度これを写生してやろうと、堤を辿《たど》って上流の方へと、足を向けた。
水車は川向《かわむこう》にあってその古めかしい処、木立《こだち》の繁《しげ》みに半ば被《おお》われている案排《あんばい》、蔦葛《つたかずら》が這《は》い纏《まと》うている具合、少年心《こどもごころ》にも面白い画題と心得ていたのである。これを対岸から写すので、自分は堤を下《お》りて川原の草原《くさはら》に出ると、今まで川柳の蔭《かげ》で見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻《しき》りに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四、五十|間《けん》隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心になっているので自分の近《ちかづ》いたのに気もつかぬらしかった。
おやおや、彼奴《きゃつ》が来ている、どうして彼奴は自分の先へ先へと廻《ま》わるだろう、忌《い》ま忌《い》ましい奴だと大《おおい》に癪《しゃく》に触《さわ》ったが、さりとて引返えすのはなお慊《いや》だし、如何《どう》してくれようと、そのまま突立《つった》って志村の方を見ていた。
彼は熱心に書いている。草の上に腰から上が出て、その立てた膝《ひざ》に画板が寄掛《よせか》けてある、そして川柳の影が後《うしろ》から彼の全身を被い、ただその白い顔の辺《あたり》から肩先へかけて楊《やなぎ》を洩《も》れた薄い光が穏かに落ちている。これは面白ろい、彼奴《きゃつ》を写してやろうと、自分はそのまま其処《そこ》に腰を下して、志村その人の写生に取りかかった。それでも感心なことには、画板に向うと最早志村もいまいましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪《と》られてしまった。
彼は頭《かしら》を上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬《ほお》に浮べていた。彼が微笑するごとに、自分
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