此《こゝ》に曳《ひ》きしも少《すくな》からで、また一倍《いちばい》の賑《にぎ》はひはありしならん、一|人《にん》志《こゝろざ》しを立《たて》て国家《こくか》の為《ため》に其身《そのみ》をいたせば、満都《まんと》の人《ひと》皆《み》な動かされて梅の花さへ余栄《よえい》を得《え》たり、人は世に響《ひゞ》き渡《わた》るほどの善事《よきこと》を為《な》したきものなり、人は世に効益《かうえき》を与《あた》ふる大人君子《たいじんくんし》に向《むか》ひては、直接の関係はなくとも、斯《か》く間接の感化《かんくわ》をうくるものなれば、尊敬の意をうしなふまじきものなりなど、花は見ずして俯向《うつむき》ながら庭を巡《めぐ》るに、斯《か》く花園《はなぞの》を開《ひら》きて、人の心を楽《たのし》ます園主《ゑんしゆ》の功徳《くどく》、わづかの茶代《ちやだい》に換《か》へ得《え》らるゝものならず、此園《このゑん》はそもいかにして誰《だれ》が開きしぞ。


     第三囘


此《こ》の梅屋敷《うめやしき》は文化九年の春より菊塢《きくう》が開きしなり、百|花園《くわゑん》菊塢の伝《でん》は清風廬主人《せいふうろしゆじん》、さきに国民之友《こくみんのとも》に委《くは》しく出《いだ》されたれば、誰人《たれびと》も知りたらんが、近頃《ちかごろ》一新聞《あるしんぶん》に菊塢《きくう》は無学《むがく》なりしゆゑ、詩仏《しぶつ》や鵬斎《ぼうさい》に詩文《しぶん》にてなぶり者《もの》にされたりといふ事《こと》見《み》えたるが、元《もと》より菊塢《きくう》、世才《せさい》には長《たけ》たれど学文《がくもん》はなし、詩仏《しぶつ》鵬斎《ぼうさい》蜀山《しよくさん》真顔《まがほ》千|蔭《かげ》春海《はるみ》等《ら》、当時《そのころ》の聞人《もんじん》の幇間半分《たいこはんぶん》なぶり者にせられしには相違《さうゐ》なし、併《しか》し諸名家《しよめいか》が菊塢《きくう》を無祝儀《むしゆうぎ》で取巻《とりまき》同様《どうやう》にする間《あひだ》に、菊塢《きくう》はまた諸名家《しよめいか》を無謝儀《むしやぎ》にて使役《しえき》せしなり、聞人《もんじん》といふものは何《いつ》の世にても我儘《わがまゝ》で高慢《かうまん》で銭《ぜに》も遣《つか》はぬくせに、大面《おほづら》で悪く依怙地《えこぢ》で、自分ばかりが博識《ものしり》がるものなり、菊塢《きくう》は奥州《おうしう》よりボツト出て、堺町《さかひてう》の芝居茶屋《しばゐぢやや》和泉屋《いづみや》勘《かん》十|郎《らう》方《かた》の飯焚《めしたき》となり、気転《きてん》が利《き》くより店の若衆《わかいしゆ》となり、客先《きやくさき》の番附《ばんづけ》配《くば》りにも、狂言《きやうげん》のあらましを面白《おもしろ》さうに話して、だん/\取入《とりい》り、俳優《やくしや》表方《おもてかた》の気にも入り、見やう聞真似《きゝまね》に発句《ほつく》狂歌《きやうか》など口早《くちはや》く即興《そくきよう》にものするに、茶屋《ちやや》の若者《わかいもの》には珍《めづら》しい奴《やつ》と、五代目|白猿《はくゑん》に贔屓《ひいき》にされ、白猿《はくゑん》の余光《よくわう》で抱一《はういつ》不白《ふはく》などの許《もと》へも立入《たちい》るやうになり、香茶《かうちや》活花《いけばな》まで器用で間《ま》に合《あは》せ、遂《つひ》に此人《このひと》たちの引立《ひきたて》にて茶道具屋《ちやだうぐや》とまでなり、口前《くちまへ》一《ひと》つで諸家《しよけ》に可愛《かあい》がられ、四十年来の閲歴《えつれき》に聞人達《もんじんたち》の気風《きふう》を呑込《のみこみ》たれば、只《たゞ》で諸名家《しよめいか》の御休息所《ごきうそくじよ》を作り、其《そ》の御褒美《ごほうび》には梅《うめ》一|本《ぽん》づゝ植《うゑ》て下《くだ》されと、金《かね》と卑劣《ひれつ》に出《いで》ざる名案《めいあん》、梅《うめ》一|本《ぽん》の寄附主《きふぬし》が、和尚《おしよう》如何《どう》だナ抔《など》と扶持《ふち》でもして置《お》くやうに巾《はゞ》を利《き》かせて、茶の呑倒《のみたふ》しを、コレハ先生よくこそ御来臨《ごらいりん》、幸《さいは》ひ左《さ》る方《かた》より到来《たうらい》の銘酒《めいしゆ》、これも先生に口を切《きつ》て頂《いただ》くは、青州《せいしう》従事《じゆうじ》が好造化《かうざうくわ》などゝ聞《きゝ》かぢりと、態《わざ》と知らせて馬鹿《ばか》がらせて悦《よろこ》ばせれば、大面先生《おほづらせんせい》横平《よこひら》たく、其面《そのつら》を振《ふ》り廻《まは》し、菊塢《きくう》は可笑《をかし》い奴《やつ》だ、今度の会は彼処《あすこ》で催《もよほ》してやらうと有難《ありがた》くない御託宣《ごたくせん》、これが諸方《しよはう》へ引札《ひきふだ》となり、聞人達《もんじんたち》の引付《ひきつけ》で、諸侯方《しよこうがた》まで御出《おいで》になり、わづかのうちに新梅屋敷《しんうめやしき》の名、江都中《えどぢう》に知られ、夫《それ》のみならず先生々々《せんせい/\》の立《たて》こがしに、七草考《なゝくさかう》の都鳥考《みやこどりかう》のと人に作らせて、我名《わがな》にて出版せしゆゑ、知らぬものは真の文雅《ぶんが》の士《し》とおもひ、訪《とひ》よるさへも多ければ、忽《たちま》ち諸国《しよこく》にも園《その》の名を馨《かほ》らせ、枝葉《えだは》の栄《さか》え、それのみか、根堅《ねがた》き名園《めいゑん》を斯《か》く遺《のこ》して年々《ねん/\》の繁昌《はんじやう》、なみ/\の智恵《ちゑ》、生才学《なまさいがく》にて此《こ》の長栄不朽《ちやうえいふきう》の計画《けいくわく》のなるべきや、気を取りにくき聞人《もんじん》の気をよく取りて皆《みな》我用《わがよう》となしたるは、多く得《え》がたき才物《さいぶつ》なり、もし戦国《せんごく》の時《とき》にあらば、うまく英雄の心を攬《と》りて、いかなる奇功《きこう》を立《たて》たるやはかりがたし、殊《こと》に此地《このち》に一|名園《めいゑん》を加《くは》へたるは私利《しり》のみなりといふべからず、偖《さて》此《こ》の菊塢《きくう》老年《らうねん》には学問も少しは心がけしと見え、狂歌《きやうか》俳句《はいく》も左《さ》のみ手づゝにはあらず、我《わ》が蔵《ざう》する菊塢《きくう》の手紙には、梅《うめ》一枝《いつし》画《ゑが》きて其上《そのうへ》に園《その》の春をお分《わか》ち申《まを》すといふ意味の句あり、また曲亭馬琴《きよくていばきん》が明《めい》を失《しつ》してのち、欝憂《うさ》を忘るゝために己《おの》れと記臆《きをく》せし雑俳《ざつぱい》を書《かき》つらねて、友におくりし中《うち》に、此《この》菊塢《きくう》の狂歌《きやうか》二|首《しゆ》発句《ほつく》一|句《く》あり、(手紙と其書《そのしよ》も移転《ひつこし》まぎれに捜《さが》しても知れぬは残念《ざんねん》)兎《と》にも角《かく》にも一個《いつこ》の豪傑《がうけつ》「山師《やまし》来《き》て何《なに》やら植《う》ゑし隅田川《すみだがは》」と白猿《はくゑん》が、芭蕉《ばせう》の句をもじりて笑ひしは、其身《そのみ》が世の名利《みやうり》に拘《かゝ》はらねばなり、此日《このひ》見《み》るもの皆《みな》嬉《うれ》しく、人の為《す》る業《わざ》を有難《ありがた》く思《おも》ひしは、朝の心の快濶《くわいくわつ》なりしうつりか、其《その》飛々《とび/\》の独《ひとり》笑《ゑ》み隅田《すみだ》の春光《しゆんくわう》今日《けふ》新《あたら》し。(明治26[#「26」は縦中横]年3月〜4月「東京朝日新聞」)



底本:「明治の文学 第13巻 饗庭篁村」筑摩書房
   2003年(平成15年)4月25日初版第1刷発行
底本の親本:「饗庭篁村全集」春陽堂
   1928(昭和3)年8月
初出:「東京朝日新聞」
   1893(明治26)年3〜4月
入力:斎藤由布子
校正:noriko saito
2008年7月22日作成
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