出世の年代に關する諸説を掲げて、次の如き斷案を下して居る。
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皆未[#レ]可[#レ]信。但趙伯林衆聖點記足[#二]以徴[#一]焉。是或其眞也。
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平田篤胤の『出定笑語』も亦全く富永の説を祖述して居る。如何にも支那所傳の諸説の中では、この衆聖點記の説が一番實際に近く、今日歐洲の印度學者の説にも、比較的よく接近して居る。之によると釋迦は孔子と同時、老子よりはやや後輩で、然もその年代相及ぶといふのが事實らしい。
五
佛教徒は釋迦の年代を繰り上げて、釋迦が老子より教を受けたといふ『化胡經』の説を否定せんと努力しつつ、一方では『老子化胡經』に對抗せんが爲に、『老子大權菩薩經』などを僞作した。この書は今日に傳はらぬから、その年代や内容を詳にすることは出來ぬが、書名によつて内容は容易に想像される。唐の法琳の『破邪論』(唐の道宣の『廣弘明集』中に收む)の中に、この書から老子是迦葉菩薩、化[#二]游震旦[#一]の一句を引いて居る。又釋の僧敏の『戎華論』(梁の僧佑の『弘明集』中に收む)に、
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故經云。大士迦葉老子其人也。故以[#二]詭教五千[#一]、翼[#二]匠周世[#一]、化縁既盡、囘[#二]歸天竺[#一]。故有[#二]背[#レ]關西引之※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58][#一]。華人因[#レ]之作[#二]『化胡經』[#一]也。
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と載せてある。經といふのは『老子大權菩薩經』か、それと類似の僞作佛經を指すので、梁代以前已にかかる佛書の僞作されたことが知れる。『化胡經』の由來を、佛家の都合好きやう牽強したなどは、一寸手際である。
佛教徒は道教の祖師老子を佛弟子とするのみに滿足せず、更に儒家の祖師たる孔子、その高弟顏子を始め、聖人といふ聖人は殘らず味方に引き入れてゐる。『須彌經』(『廣弘明集』卷十二に引く所による)には、
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寶應聲菩薩化爲[#二]伏羲[#一]。吉祥菩薩化爲[#二]女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89][#一]。儒童化作[#二]孔丘[#一]。迦葉化爲[#二]李老[#一]。
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と記し、『造天地經』(宋の羅泌の『路史發揮』に引く所による)にも、次の如き略同樣の記事が見えて居る。
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寶歴菩薩下[#二]生世間[#一]。號曰[#二]伏羲[#一]。吉祥菩薩下[#二]生世間[#一]。號曰[#二]女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89][#一]。摩訶迦葉號曰[#二]老子[#一]。儒童菩薩號曰[#二]孔丘[#一]。
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又『清淨法行經』といふには、儒童菩薩を孔子に充て、光淨菩薩を顏子に、摩訶迦葉を老子に充ててある。『清淨法行經』は北周の道安已に之を引用し、『造天地經』は北周の甄鸞《ケンラン》これを引用し、『須彌經』は唐初の明※[#「(廐−广)/木」、第3水準1−86−3]に引用されて居る。されば佛教徒が南北朝時代から、支那の聖賢を菩薩の化身として、佛教側に引き入れたことが明白である。明※[#「(廐−广)/木」、第3水準1−86−3]が三皇・五帝・孔・李・周・莊みな菩薩化身と主張して居るのは、化身説を極端まで應用したものである。この手段がやがて平安朝時代にわが國に輸入されて、本地垂迹の説となり、わが國では支那よりも一層の成功を見得たのである。
本地垂迹の説は、普通に傳教大師や弘法大師によつて創唱されたものとなつて居る。この二人は何れも入唐した。唐時代は道佛二教の爭の盛な時であるから、この二人も支那の僧侶が老子や孔子を菩薩扱にして、宗勢を擴張した先例を見て、歸朝の日に之を我が國に應用したのであらうと想像される。本地垂迹の説が完全に組織されて、何の神の本地は何の菩薩と一々附會されたのは、固より後世の事であらうが、化身説を利用して、神佛の調和を計らんとする傾向は、傳教・弘法の時からあつたので、これは支那から輸入したものであらうと想像される。十分の調査をして居らぬから、斯には單に想像というて置く。
六
王浮の僞作した『老子化胡經』は、兔も角も佛教徒に恐慌を起さしめた。佛教徒は熱心にその假僞を辯じた。『老子化胡經』の眞僞論は、南北朝から唐代にかけて道佛二教の爭の主要なる題目であつた。唐の高宗の總章元年(西暦六六八)に、復も僧道を宮中に會して、『老子化胡經』の眞僞を對決させたが、この時僧の法明、衆を排して出で、老子化胡の際に使用せし言語につき難問していふ、此際若し華語を使用せしとせんか、胡人は華語を解せざるべく、若し胡語を使用せしとせんか、何時代に誰人が胡語の『化胡經』を譯して漢文の『化胡經』となせしか、翻譯時代、筆受の人名を明示せよと、意外の問に一人の道士も應答し得るものなく、かくて佛者は勝利と宣せられ、一切の『老子化胡經』は燒棄を命ぜられた。
併しこの勅命は十分實行せられなんだものと見え、武后の萬歳通天元年(西暦六九六)に、沙門の慧澄は前朝の決議により、『老子化胡經』を燒棄せんことを願ひ出た。武后は秋官侍郎劉如睿(また劉如※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]、劉汝※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]などに作る)等八學士に命じて『老子化胡經』の眞僞を論定させたが、八學士は老子化胡の事は漢・隋の正史に載せ、一概に捏造とのみ認め難しと復奏した。之に因つて道士は又勢を恢復し、道佛の爭は一層の激さを加へ、朝廷も遂にその弊に堪へざりしと見え、間もなく中宗の神龍元年(西暦七〇五)に、次の如き詔を下した。
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如[#レ]聞道觀皆畫[#二]化胡成佛之相[#一]。諸寺亦畫[#二]老君之形[#一]。兩教尊容。互有[#二]毀辱[#一]。深爲[#レ]不[#レ]然。自[#レ]今竝須[#二]毀除[#一]。其『化胡經』屡朝禁斷。今後有[#レ]留[#二]此僞經[#一]。及諸記録有[#下]言[#二]化胡[#一]者[#上]。竝與削除。違者準[#レ]勅科[#レ]罪。
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この時隨分嚴重に搜索して燒き棄てたと見え、『舊唐書』の經籍志にも『新唐書』の藝文志にも、その書名を記載してない。〔我が藤原佐世の『日本國見在書目録』の道家部に『化胡經』十卷を收録してあるけれど、肝心の『化胡經』そのものは今日に傳らぬ。故に今日では當時の『化胡經』の内容を知ることが出來ぬ。ただ近年フランスの Pelliot 氏が敦煌から發見した『老子化胡經』の殘卷は、その内容や字體から推して唐時代のものと認められるから、之によつて過去の『化胡經』の幾分を窺ひ得るのみである。
『老子化胡經』に關する道佛二教の爭は、唐の中世以後一寸史乘に痕を絶つたが、五百餘年を經て、蒙古時代になると、『化胡經』が再び現はれて來て、二教の爭に復た又花を咲かした。蒙古時代に於ける道佛の爭は、尤も委細に元の念常の『佛祖歴代通載』に紹介されて居る。〕唐時代の『化胡經』と蒙古時代の『化胡經』との内容の異同は、兩時代の『化胡經』が共に全くは今日に傳來せぬから、一寸判定し難い。しばらく敦煌新發見の『老子化胡經』の殘卷と、『佛祖歴代通載』卷三十三に載する所の『辯僞録』中に散見する『化胡經』――正しくは『老子化胡成佛經』ともいふ――とを對照すると、部分的には同一の文句も見えるが、全體としては同一でない樣に思はれる。蒙古時代の『化胡經』は、恐らく唐代の『化胡經』の諸書に散見して居るものを※[#「綴」の「糸」に代えて「てへん」、264−8]拾しつつ、任意添加したものであるまいか。敦煌發見の『化胡經』の殘卷と、蒙古時代の『化胡經』に就いては、他日機會を得ば、更に攻究したいと思ふ。
[#地から3字上げ](明治四十三年十二月『藝文』第一年第九號所載)
底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
1968(昭和43)年2月13日発行
初出:「藝文 第一年第九號」
1910(明治43)年12月
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月1日作成
2004年2月22日修正
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