しても、『書經』の禹貢を見ると、支那古代の田地を、上の上より下の下に至る九等に區別してあるが、北支那の田地は、上等又は中等を占め、南支那の田地は、下の下とか下の中といふ劣等に位する。かく古代に於ける、南支那の田業は言ふに足らざる有樣であつたが、南方の開發するに從ひ、その農耕も進み、隋唐以後は、南支那が米穀の本産地として、北支那は却つてその供給を受けなければならぬこととなつた。即ち唐代には毎年約二百萬石、宋代には約六百萬石、元・明・清時代でも毎年三四百萬石ほど、南支那から米穀の供給を受けねば、國都を維持することが出來ぬ。
支那の運河は、南方の米穀を國都へ漕送する目的の爲に、開鑿されたものが多い。故に長安・洛陽・開封・北京と國都の變更する毎に、自然運河の水道をも變更して居る。この漕運に故障が出來ると、國家の命脈に直接の影響が及ぶ。唐の徳宗の時、暫く漕運の阻絶せし爲め、長安は饑窮に迫り、不穩を極めたが、やつと南米が到達すると、天子は太子と共に、吾父子得[#レ]生矣とて、祝杯を擧げられた。元の滅亡した一大原因は、江南の糧道を絶たれた故と傳ふ。明代の諺に、江(江蘇)浙(浙江)熟、天下足とある。支那全國の食料問題は、殆ど南支那の豐凶に據つて決する有樣といはねばならぬ。
四
南支那の開發は、秦漢時代からその緒につき、晉室の南渡によつて、急にその度を進め、唐・宋・元・明と歩武を續けて、遂に南方は文化・戸口・物力すべての點に於て、北方を凌駕することになつた。支那の學者は、この現象を解して、天運の循環、地氣の盛衰に歸して居るが、吾が輩の所見では、南支那の開發に預つて力ある第一の原因は、北支那には絶えず野蠻な塞外種族の侵入があり、之と共に優秀なる北方の住民が、次第に南支那に移轉したことに存すると思ふ。
塞外種族は何時も北支那へ侵入し、また先づ北支那を占領する。北支那人は南支那人に比して、遙に長い年月の間、異族の支配を受けた。その自然の結果として、彼等との間に雜婚が行はれて居る。此等の理由により、北支那人は餘り異族を排斥せぬ。燕趙地方――大體に於て今の直隷省に該當する――に、悲歌慷慨の士の多かつたのは、秦漢時代若くばその直後の時代のこと、後世の事實はこの傳説を裏切つてゐる。金の世宗は曾て燕人に就いて、
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燕人自[#レ]古忠直者鮮。遼(契丹)兵至則從[#レ]遼、宋人至則從[#レ]宋、本朝(女眞)至則從[#二]本朝[#一]。其俗詭隨有[#二]自來[#一]矣。
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と評した。この評は燕人に限らず、廣く北支那人一般にも通用することが出來る。絶えず異族の侵略に暴露されて居る北人には、此の如き冷淡なる態度――旅舍の主人が行客を送迎するが如き――も亦、一つの必要なる處世法であつたかも知れぬ。
ところが南支那となると、頗るその趣を異にして居る。茲では以前から異族排斥の風氣が強い。南宋時代の學者は、當時北支那を占領した女眞種族の金に對抗する爲に、盛に尊王攘夷説を主張した。宋の蒙古に滅された時、また明が夷狄の滿人に併呑された時、支那の歴史に稀に見る程、忠義の士が奮起して、頑強に抵抗を試みた。この最後まで戰つた忠義の士は、大抵南支那人であつた。
國家や種族を愛護する念がより強く、知識もより進んで居る、且つ物力のより豐富なる南支那人は、支那の前途に就いて、北支那人より重要なる位置を占むべきは申す迄もない。支那今後の興廢盛衰は、多く南支那人の發奮如何に關係することと思ふ。吾が輩は南支那人に對して、多大の期待を有すると共に、彼等がその重大なる責任を自覺して、支那人一流の徒なる悲憤や、空しき慷慨にのみ滿足せず、進んで中華民國興隆の爲め、積極的にして徹底的なる方法を採らんことを希望するのである。
[#地から3字上げ](大正八年四月『雄辯』第十卷第五號所載)
底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年2月26日公開
2004年2月22日修正
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