とした北支那の異名に過ぎぬ。當時揚子江沿岸の南支那は、蠻夷の域として擯斥されて居つた。
 春秋戰國にかけて約五百年間は、支那の文化の絢爛を極めた時代であるが、その時代に出た文武の大人物を見渡すと、皆北支那の産で、南支那人は殆ど見當らぬ。例へば儒家の孔子・子思・孟子・荀子の如き、道家の老子・列子・莊子の如き、兵家の孫・呉二子の如き、縱横家の蘇秦・張儀の如き、その他管仲も墨※[#「櫂−木」、第3水準1−90−32]も楊朱も韓非も、皆北支那の人である。南支那には之に比敵すべき一個の大人物をも見出し難い。
 秦の始皇帝や、漢の武帝が、南方經營に力を盡くし、この方面に漢族の移住する者多きを加ふると共に、南支那の風氣は幾分開發されて來たけれど、漢代の諺にも、關西出[#レ]將、關東出[#レ]相とある通り、文武の大人物はみな函谷關(河南省)の左右に當る北支那から出て來た。始めて漢と西域(中央アジア)との交通を開いて、その功績をさをさ新大陸發見のコロンブスにも比較される、張騫は漢中(陝西省)の人、支那史學の開祖で、支那のヘロドトスと呼ばれる司馬遷は龍門(陝西省)の人、訓詁學の大家で、一部の經學者から孔子
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