Z年の頃、先生が華族女學校に奉職して居られた時に、幹事の北澤正誠といふ男を蹴り倒して、事が面倒となり、遂に辭職されたことは有名の談である。この事件に就いて、吾輩は曾て當時の目撃者また關係者であつた人から、委細の事實を聞いたが、那珂先生の方に十分同情すべき理由があるのである。
この北澤といふ男は、たしか信州の産で、曾て東京地學協會の幹事などをやつて居つた人である。其の節、平城天皇の御子、高岳親王即ち眞如法親王が佛蹟禮拜の爲渡天の際、羅越といふ處で御隱れとなつたが、其の羅越は老※[#「てへん+過」、第3水準1−84−93]《ラオス》である、何でも高岳親王の御墓所は暹羅《シャム》の北境にあるに相違ないといふ説を唱へ出した人である。是の説は根據極めて薄弱であるに拘らず、隨分贊成者もあつて、後には暹羅《シャム》政府とも交渉して御墓所を搜索するといふ騷ぎになつたが、勿論失敗に終つたのである。この人は後に伊豆か小笠原あたりの島司となり、三四年前に死去したと記憶して居る。
北澤以外の人とも隨分衝突されたが、現在の人に關係あるから態と斯にはいはぬ。其れで世間からは、那珂といふ人は我武者で、偏屈人で、
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