洲人はこれをイタリーの里數と誤算した。イタリーの里長は支那の里長の約三倍もあるから、この誤算は愈※[#二の字点、1−2−22]實際以上に東方アジアを廣大ならしむる譯である。例へばマルコ・ポーロに據ると、ヂパング即ち日本は、(支那)大陸の東一千五百里の大海中にある大なる島であるが、この一千五百里といふ里數を、イタリーの里數として換算すると、經度二十五度に當るから、ヂパングは支那大陸より、東經二十五度を距てた大海中に存在せなければならぬ。然るに今日實際について見ると支那大陸の一番東端と日本の西端との距離は、約經度八度であるから、この誤算の結果として、支那とヂパング(日本)との距離は、實際の三倍以上に擴大された譯である。
元來歐洲では、古くギリシヤ時代から、世界は球形をなすものと考へられて居つた。世界が球形をなすものとすると實際以上に擴大膨脹されたアジアの東端は、段々東へ延び廻つて、自然に歐洲の西端に接近して來なければならぬ。それで十五世紀の後半期になると、歐洲の知識階級の間では、殊に地理學者の間では、アジアの東端にあるヂパング即ち日本は、歐洲の西邊のポルトガルやスペインと、實際以上に餘
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