がある。この大衍暦は唐の玄宗時代に、即ち唐の開元十六年(西暦七二八)から唐の朝廷に採用された新暦である。然るに當時支那に留學して居つた吉備眞備が、その大衍暦の非常に優秀なることを聞き知つて、その歸朝の時にこの暦を我が國に將來した。それは聖武天皇の御代で西暦七三四年で丁度大衍暦が唐に採用されてから六年目の後である。それから淳仁天皇の御代になると、西暦七六三年からこの大衍暦が唐同樣に我が朝廷にも採用されて、爾後約百年の間、この暦が日本の正暦と定められたのである。
此の如く宗教でも儒學でも天文でも何でも、善いもの新しいものが出來ると、それが直に我が國に輸入される。八年とか十三年とか六年だとかの年月はその頃の交通不便な状態から考へて比較すると、今日の殆ど半年位にも一年位にも當らないのである。御承知の通り唐時代に於ける日本と支那との交通は、非常に困難であつた。小さい帆船で羅針盤の設備もなく、從つて方向も不確な儘に、頼りない航海をするので、大抵三度に一度は難船するといふ有樣で、實に命掛けで航海をしたものである。それで我が朝廷から派遣する遣唐使の船なども、早くて五年目に一度か、普通に十年目に一度位しか出掛けて居らぬ、此等の事情にも拘らず、唐の新しい制度や文物や宗教學問などを、或は六年或は八年或は十三年の後に直に我が國に輸入する。此の如きことは他國人には容易に企て及ばぬことである、試みに朝鮮人の場合と對比すればこの點がよく判然すると思ふ。
唐時代の朝鮮は丁度新羅の時代に當るが、この新羅は日本と比較すると、支那との交通は餘程便利であつた。第一陸續きでもあり、大抵一年置きか二年置き位に、「遣唐」使を唐の朝廷へ送つてゐる。それにも拘らず彼等は新しい文化新しい知識を攝取する點に於て、日本とはまるで比較にならぬほど緩怠であつた。例へばさきの法相宗である。法相宗の支那に傳來したのは、新羅統一以前ではあるが、その時新羅の圓測といふ僧侶が長安に留學して居つて、我が道昭と前後して、玄奘三藏からこの新宗教の奧義を聽聞しながら、之をその本國に輸入して居らぬ。法相宗の新羅に傳つた時代は、正確には申されぬが、日本より餘程後くれ、約百年位も後であらうと思ふ。孝經も早く朝鮮に傳はつて居つたのであるが、唐の開元時代の如き、天下家毎に一本を備へるといふ制度は、遂に朝鮮で施行されて居らぬ。また當時新羅の暦は甚だ不完全であつたと想像せらるるに、優秀なる大衍暦が出來ても、新羅の政府は遂に之を採用せなかつた。新羅は支那との交通が頻繁であり、便利であつたに拘らず、此の如く新しい文化、新しい知識を輸入するのに不熱心であつて、到底我が國と同一に談《かた》ることが出來ぬのである。
序に申述べるが、この大衍暦は支那で出來た古今の暦のうちで、最も優秀なる暦であるのみならず、世界に對しても誇るに足るべき優秀なる暦であつた。この暦は支那の有名な一行といふ僧侶が、唐の玄宗の開元年間に作製したものである。玄宗の開元の初期に使用されて居つた暦は、唐の高宗の麟徳二年(西暦六六五)に、之も有名な李淳風の作つた麟徳暦であるが、開元の頃となると、この麟徳暦が不正確となり、暦と天體の運行とが一致を缺くことになり、暦表に日蝕と記載してある日に日蝕がなかつたり、種々の不便が起つたので、改暦の必要を感じた。
唐の天文臺には早くから、印度人の天文學者が勤務して居つたが、玄宗時代に改暦の氣運が熟すると、當時の太史監で後世の天文臺長ともいふべき位置に在つた、印度人の瞿曇悉達(〔Gautama Siddha'rta〕)といふ天文學者は、印度暦の名譽を發揮するには、この時機を逸してはならぬと考へ、開元六年(西暦七一八)に印度暦を漢譯して九執暦を公にした。九執とは梵語 〔Navagra^ha〕 の意譯である。Nava とは九といふ數で、〔Gra^ha〕 の本來の意味は「執へる」又「掴へる」ことであるが、同時にその本義を延ばして曜《ほし》をも意味する。曜は人間の運命を掴へて支配するといふ考から、曜をも 〔Gra^ha〕 と稱するのである。印度の天文は日・月・水・火・木・金・土、其他の都合九個の 〔Gra^ha〕 を本とするから、その暦を九執暦又は九曜暦と稱したものと思ふ。
かくて玄宗の開元六年に印度の天文學者の瞿曇悉達が改暦の參考に供すべく、九執暦を漢譯すると、更にその翌年の開元七年(西暦七一九)に中央アジアの吐火羅(Tokhara)國の王が、唐改暦の噂を聞き傳へたと見え、天文學に堪能なる其國の僧侶を長安に送つて、改暦の手傳ひを願ひ出てゐる。また同じ年に今のアフガニスタン地方に當る迦畢試(Kapisa)國の政府からも、天文に關する文獻を唐の朝廷に送呈して居る。兔に角唐の朝廷で改暦の議が始まると、中央アジアのイラン(波斯)系
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