日本國民は外國と觸接する機會ある毎に、その新しい文化、新しい知識を攝取すべく努力したので、この點は餘程朝鮮人や支那人と趣きを異にしてゐると思ふ。支那人や朝鮮人などは古代に於ては、日本よりも遙に交通上、便利な位置に立つたのであるが、その外國の新知識や新文化を取入れる熱心さにおいて、到底日本人のそれに比較にならぬのである。日本人は支那人や朝鮮人に比して、遙に外國の新知識や新文化を攝取するに熱心であつた。これが東亞に於て日本のみが今日の如く優勝の地位を占めるに至つた主要なる原因であらうと思ふ。
 我が國は歐米諸國と交通を開いて以來、殊に明治時代に、盛に西洋の文物を輸入した。その熱心さは世界の驚嘆する所であるが、併しこの態度は、必ずしも西洋の文物に對してのみでなく、また明治時代に限つた譯でない。維新の五ヶ條の御誓文の一にある、知識を世界に求めて、大いに皇基を振起することは、我が國古來傳統の大方針と認めねばならぬ。そのかみ唐と交通した時代に、支那の文物を輸入した熱心な態度も、またポルトガル人の來航した時代に、極西の知識を輸入した熱心な態度も、格別明治時代のそれに遜色がなかつた。私は二三の實例を擧げて、これを證明しようと思ふ。

 唐時代に支那に新たに傳はつた佛教に法相宗がある。これは有名な玄弉が唐の太宗の時代に西暦六四五年に、印度から始めて支那に持つて歸つた新宗旨である。所がその時日本から支那に留學して居つた道昭といふ僧侶が直に玄奘に就いてこの新宗旨を學んで、之を日本へ傳來した。道昭が我が國に法相宗を傳へたのは、孝徳天皇の御代で西暦六五三年に當る。即ち法相宗が印度から新たに支那へ傳來して、僅か八年經つか經たぬうちに、早くもその新宗旨が日本へ輸入されたのである。
 儒教の方面に就いて申せば、儒教の經典に孝經がある。この孝經は支那歴代を通じて尊重されて居るが、殊に唐時代に最も尊重されて、唐の玄宗の天寶三載(西暦七四四)に天下何れの家でも、家毎に必ず孝經一本を備へて、朝夕講習せよといふ御布令が發せられて居る。この新しい制度は、間もなく我が國に採用されて、稱徳天皇の御代に西暦七五七年に、我が國でも家毎に孝經一本を備へて、朝夕之を講習せよといふ御布令が發せられて居る。丁度十三年目に、唐の新制度が我が國に實施された譯である。
 方面を變へて天文の方を觀ると、唐時代に出來た有名な暦に大衍暦
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