任じた。ついで永元六年(西暦九四)には、西域一帶に班超の威風に靡き、監子を送つて漢に歸順するもの、五十餘國に及んだ。班超はこの功勞によつて定遠侯に封ぜられ、年來の素懷を遂げた譯である。この前後二十年に渉れる班超の外交軍略の手腕、誠に感服の外ない。彼の成功は決して偶然でないと思ふ。
班超は西域都護の任に在ること十三年の間に、漢の國威を遠くペルシア方面まで發揚させた。彼が大秦(ローマ帝國)と交通を開かんために、部將甘英を派遣したのは、永元九年(西暦九七)のことである。甘英が使命を果さずに、ペルシア灣頭から東歸したのは、千歳の下なほ遺憾に堪へざる次第である。
流石の班超も寄る年波に敵し兼ね、しばしば辭任を歎願したが、朝廷では彼に代り得べき適任者なき故、中々許可とならぬ。最後に彼の妹の班昭は、兄に代つて悲痛なる上書をした。此上書は『後漢書』の班超傳に附載されてあるが、筆情兼ね備はる點に於て、孔明の出師表や、李密の陳情表に比敵し得べき名文と思ふ。出師表は忠義を骨子とし、陳情表は孝行を骨子とし、班昭のは友情を骨子として居る。和帝も班昭の至情に感動されて、班超の歸國を許した。彼は永元十四年(西暦
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